真相解明のための再調査着手。 2019年冬
ディアトロフたちの死因に関して沢山の説がありましたが、残念なことに、どの説にも粗があって、9人全員の死因を辻褄があうように解明したと言える説は1つもありません。9人が亡くなった頃は、ソ連時代で情報が統制され秘匿されていましたので、当局の捜査に疑惑の目が向けられるのは自然なことでした。また、当局が公開していた資料では、9人がどうして激しい吹雪の中を薄着でテント外に出たのか、どうしてそのような自滅的な行動をとったのかという点は解明されていませんでした。何十年もの間、死んだ9人の遺族やディアトロフ登山グループ記念財団は、当局に再調査を求めていました。ようやく2年前にその要求が受け入れられ、事件の再調査が開始されました。
再調査を担当したのは、エカテリンブルクの若い検察官、アンドレイ・クリヤコフでした。2019年の冬に、彼は調査隊を組織し、事件現場に行きました。調査隊はそこで測定や捜索や写真撮影やさまざまな実験を行いました。1959年に撮影された写真を持参して、現況と見比べて、テントが張られた正確な位置を特定しました。その位置は、ホラート・シャフイル山の急な斜面の上でした。60年前の死因審問が為された際にテントが張られたと考えられていた地点から、数十メートル離れていました。調査隊は、今回の調査と60年前の資料やデータを精査して、9人が亡くなった日の夜のその辺りの天候は考えられていたよりも過酷だったことが判明しました。夜には気温は摂氏マイナス33度まで下がり、亡くなった9人は最大風速65マイル(100キロ)の雪嵐に飲み込まれたのでしょう。おそらく、夜になって暗くなってからは、9人は正確な位置も把握できていなかったでしょう。
再調査を始めた直後から、9人の死因を説明する75の仮説を絞り込んでいき、矛盾がある説を除外していった結果、残った説は3つに絞られました。75の説のほとんどは、当局が何らかの形で殺人に関与していたとする陰謀論的な説でした。クリヤコフは2020年7月にオンラインで記者会見をしましたが、そうした事実は無かったと主張しました。会見では、3つの仮説が残ったということを発表しました。それは、テントが大規模雪崩に丸のみされたという説、ハリケーンに襲われたとする説、強い風により形成された固い風成雪板がテントのまで到達したという説でした。彼は、中でも3つめの説、硬い風成雪の表層雪崩の説の可能性が1番高いと結論付けました。しかし、遺族らはこの結論には納得しておらず、人為的な要因であろうと推測しています。
午後5時頃にディアトロフたちが撮影した2枚の写真がありました。テントを設営している姿が映っていました。それを見ると、彼らは山の斜面の深い雪の上をまっすぐ下に掘り下げて、くぼ地を作っていました。そこにテントを張って山頂から吹き降ろす強風をしのぐことにしていました。1.5キロほど下方に進めば森があり、木々の中でのテントを張る方が容易でしたが、暗くなったことと、せっかく登ったのに下るのを嫌気してそこで野営したのだと推測されます。クリアコフが説明によれば、夜遅くに、斜面の上方で硬い風成雪板が剥がれ表層雪崩が発生してテントの大半が雪に埋まり、何人かは雪に押しつぶされそうになって外傷を負いました。表層雪崩に続く大規模雪崩の発生が差し迫っていると感じた9人は、テントを切って急いで逃げ出して斜面を下方へ進み150フィート(46メートル)先の岩稜に辿り着きました。そこは、クリヤコフが地形を調査した際に分かったのですが、雪崩の直撃を避けられる場所でした。結局、大規模雪崩は発生しませんでしたが、真っ暗闇の中で、9人はテントがある方向が分からなくなり、1マイル(1.6キロ)下方の森の中に避難しました。クリヤコフはこの説を検証するため、2人(男1、女1)を目隠ししてテントのある位置から90フィート(27メートル)だけ下方へ誘導して歩かせました。そこで目隠しを外しテントに戻るよう指示しましたが、2人とも即座に方向を見失いました。9人が亡くなった時の状況はさらに過酷で、激しく吹雪いていてテントほとんど雪に埋まっていましたので、テントに戻ることは絶対に無理だったでしょう。
1959年に撮られていた写真を分析して、ディアトロフ探検隊について興味を持っている人の多くは、テントが張られていた斜面の傾斜は15度ほどだと推測していました。そのくらいの傾斜であれば極寒下では雪崩は発生しないでしょう。しかし、クリヤコフの調査チームが旧来テントがあったとされていた位置は誤っていたことを突き止め、正しい場所を特定しました。クリヤコフの調査隊の地形学の専門家が言うには、位置が違うということには重大な意味があります。本当にテントがあった場所の斜度は23~26度と推測され、雪崩が発生しても不思議ではありませんでした。クリヤコフの仮説を裏付けるような論文が今年の1月にCommunications Earth&Environmentという雑誌に掲載されました。論文を書いたのは2人のスイス人でした。2人はディミトロフらが亡くなった夜の気象状況を調べて積もった雪の状況をコンピューターで計算して分析しました。それによれば、9人はテントを張るために硬い風成雪板を掘ってしまいましたが、それをしてもすぐには表層雪崩は起きません。数時間後に表層雪崩が起きるのです。その間に激しく雪が降り続き雪の表層が重くなって表層雪崩が起きたのです。
私は、コロラド雪崩情報センターの所長のイーサン・グリーンに手伝ってもらいながらクリヤコフの説が正しいか調べました。グリーンが言うには、ディアトロフたちが山頂の風下側の斜面にテントを張ると決定したことが悲劇の発端であったと推測しました。そのことによって、彼らはテントを張るあたりで風成雪板を掘ることになったからです。風成雪板とは、風にさらされて圧縮された、硬く雪が固まったものです。普通に積み重なった雪よりも比重が何倍も重いのです。また、吹雪きになる前は晴天だったので、積もった雪の表面には表面霜と呼ばれる空気を沢山含んだ軽い雪の層が形成されていました。その表面霜の上にその後の吹雪で新雪が積もり、構造上の特徴として表面霜は支える力が弱いので雪崩が起きやすくなっていました。また、テントを張るあたりの雪を掘った時に、ディアトロフたちは表面霜の下の風成雪板を割っていたと推測されます。風成雪板はテントより上のエリアの積もった雪を支えていましたが、テント付近で割られたことでテントより上方の雪の支えが無くなって表層雪崩が起こったのだと考えられます。
グリーンの推測では、表層雪崩で風成雪板だけがテント辺りまで滑っただけで、大規模雪崩は発生しなかったので、25日後に死体が発見された時にはそれが起こった形跡が残っていなかったのでです。表層雪崩が発生すれば、雪が少なくなり穴が空いたようになりますが、それも25日もすれば風雪で分からなくなります。3フィート(90センチ)の高さの雪が崩れるような大規模雪崩がテントを襲ったとしたら、各人が1000ポンド(450キロ)の雪に覆われ、覆われた雪の中からブーツや厚手の衣類を回収するのは不可能で、テントから下方へ離れて逃げるしかなかったでしょう。
先述した論文を発表していた2人のスイス人は、テントの近くで雪に埋まっていて酷い外傷があった3人は雪崩に巻き込まれたと確信していました。しかし、3人が見つかった場所とテントとの距離を考えると、あり得ないことのように思われます。クリアコフの説のほうが理にかなっているように思えます。クリヤコフは次のように推測していました。9人はヒマラヤスギの森に避難するためテントから斜面を下り、森では火をおこしました。森の幼木は水分が多くて火が付かなかったので、誰かが高木に登って薪用に枝を折ったのです。それゆえ、その人の皮膚片や衣類片が高木の幹に残ったのです。火をおこしたものの、厳寒で薄着だったので生き延びることは出来ませんでした。最も薄着だった2人が最初に死にました。2人の皮膚に火傷があったのは、必死に火に近づいて暖まろうとしたからです。
2人が死んだ後、残りの者は死んだ2人の服を切って、それを身や手足に巻きました。しばらくして、残りの7人は2つに分裂しました。ディアトロフら3人がテントに戻ろうとしましたが、斜面を登ることに悪戦苦闘するも力尽きて凍死しました。残りの4人は、幸いにも先に死んだ者たちほど薄着ではありませんでした。朝まで吹雪をやり過ごすために雪を掘って穴に退避しようとしました。そのためには積雪が多い場所が必要でした。雪が十分にありそうな山峡を200フィート(61メートル)先に見つけ、そこに辿り着きました。しかし、彼らが雪を掘ろうとした場所は、運悪く渓流の上だったのです。ロズバ川の支流でした。その渓流は凍っていませんでした。渓流の上には空洞があり、その上に氷や雪が被ってトンネル状になっていました。4人が掘り始めると、トンネルの屋根が崩壊し、岩でごつごつした川床に落ちて、その上を10〜15フィート(3~5メートル)の雪が覆いました。大量の重い雪によって川床の岩に押し付けられたことにより、4人の遺体には酷い外傷が残りました。遺体から眼球や舌や上唇が無くなっていたのは、小動物に食べられたか腐敗したからでしょう。
クリアコフの説は、どんな仮説よりも筋が通っているように思えました。しかし、説明が付かない部分がありました。それは、放射能汚染がなぜ起こったのかという点でした。それを説明するのは難題のように思えましたが、以外と容易に解決しました。放射能は、当時使われていたキャンプ用ランタンのマントルに由来すると推測されました。当時のマントルには、微量のトリウムが含まれていたのです。また、放射能はスヴェルドロフスクの南にあるマヤーク核技術施設で発生した原子力事故(爆発事故)に由来する可能性もありました。その事故が発生したのは探検隊が遭難する2年前の1957年9月で、歴史上3番目に大きな原子力事故でした(1、2位はチェルノブイリと福島)。放射性廃棄物を濃縮して貯蔵していたタンクが爆発し、長さ約200マイル(320キロ)の放射性プルーム(放射性雲)が原発の北方へ広がりました(後に、汚染された地域は東ウラル放射能汚染帯と呼ばれました)。クリヴォニシチェンコはその原発での勤務経験があり除染作業にも加わっていましたし、放射能汚染が認められたもう1人は東ウラル放射能汚染帯の村の出身でした。