4. 細りつつある核融合発電実用化研究への投資
オマハ出身のプラズマ物理学者のボブ・マムガード(37歳)は、1858年の大西洋横断電信ケーブルの敷設や1976年のジェネンテック社(カリフォルニア州サンフランシスコに本社を置くバイオベンチャー企業のパイオニア)の設立について関しての話をする時には非常に楽しそうです。彼はネブラスカ大学で工学を学びました。大学では最初は物理学に興味を持ちましたが、講義自体は楽しかったけれど実用的な学問ではないと感じていました。「私と同じ大学を出た者の多くは、トラクターの設計等の仕事に従事していました。」と彼は言いました。2008年にMac Book Airが発売された時、マムガードはコンピューターのハードドライブディスクを研究開発する施設で勤務していました。Mac Book Airにソリッドステートドライブが装備されているのを見て、マムガードは、旧来型のハードドライブは時代遅れになるので、務めていた施設を辞めて他の研究をしなければならないと察しました。
そこで彼はどこかの大学の大学院で物理学を学び直そうと考えました。結局、スタンフォード大学に進むことにし、そこでは、宇宙論とダークマターについて研究しました。その後、彼はMITのプラズマ科学・核融合センターに加わり、そこで核融合の研究に携わるようになりました。彼の中西部出身の実用主義者としての特質が原因だと思われますが、彼は宇宙論ではなく核融合を専門とすることに決めました。しかし、彼は特に気象問題に興味があったわけではありません。彼は私に言いました、「当時、気象問題に関して議論することもありました。ペンシルベニア州立大学の気候予測モデルは優れているか否か等の議論をした記憶はあります。でも、議論にそんなに多くの時間を費やした記憶はありませんね。」と。しかし、彼がデニス・ホワイトの下で院生の立場で核融合炉の設計に携わっていた頃には、彼の認識も変わっていました。気候変動の影響を小さくするためには核融合発電技術の実用化を急がなければならないと認識しました。
彼はMITのプラズマ科学・核融合センターで研究していたわけですが、その将来は必ずしも安泰と言えるものではありませんでした。MITが実験的核融合装置への国からの助成金が無くなると言われた後、プラズマ科学・核融合センターはさまざまな交渉で国からの助成金を何とか2016年まで延長してもらいましたが、それ以上の延長は為されないであろうことは明らかでした。マムガードは言いました、「助成金が打ち切られるということは重大な問題でした。せっかくHTS(高温超伝導体)を使う方法が有望であることが判明したところで、助成金の打ち切りが決まってしまったのです。」と。2014年までに、マムガードと同僚たちは、ARC /SPARCの開発計画を立案しました。詳細で具体的な長期計画で、いくつものベンチマークが示されていました。その計画は、ベンチャーキャピタルを呼び込むために必須のものでした。マムガードは言いました、「MITで学んでいたのでベンチャーキャピタルのことについてはある程度の知識がありました。SPARCを計画通りに開発する際に最大の課題は、HTS(高温超伝導体)を使った強力な磁場の構築でした。」と。
2015年、米国テキサス州オースティンで米国電気電子学会主催の核融合関連のシンポジウムが開催されました。核融合研究に携わる多くの著名研究者が参加していました。特に注目に値する講演が2つありました。1つは、オーストリアの物理学者ギュンター・ヤネシッチ(雰囲気がアーノルド・シュワルツェネガーにそっくり)によるものでした。彼は、ITERのほぼ2倍のサイズで、5ギガワットの電力を生成するDEMOと名付けられた核融合装置の素案についてのプレゼンテーションを行いました。ヤネシッチは、資金があれば、素案を元に試作機を20年で完成させられると主張していました。DEMOは、非常に具体的な素案で、決して実行不可能な計画ではありませんでした。それは、私たちの曾孫の世代までに核融合発電を実用化するための一歩であると捉えられています。
もう1つは、デニス・ホワイトが行ったARCについて行ったプレゼンテーションでした。彼の見通しは、2025年までに核融合運転の実証実験を済ませ、2030年には核融合炉を送電力網に繋ぐというものでした。そのためには核融合炉1基当たりの発電量を1ギガワットまで引き上げる必要がありました。それは旧来型の火力発電所1基が供給する電力量と同じです。DEMOの初期費用は300億ドルかかります。一方、ARCは100万ドルで済みます。マムガードは言いました、「比較対象が300億ドルでしたから、100万ドルという数値は、非常に画期的に見えました。違いは明確でした。会場には微妙な空気が流れました。若い研究者たちは、非常に希望が持てると感じて大喜びしていました。若くない研究者の多くは、どうせぬか喜びになるのだからと認識していて、冷静なままでした。」と。
その時冷静なままだった者たちは、決して興ざめしていたわけではありません。彼らは何十年も核融合研究に身を捧げてきた人たちですから、核融合の研究が置かれている状況を正しく認識できていました。彼らは、HTS(高温超伝導体)で十分なサイズの磁場を構築することのハードルがとてつもなく高いことや、その研究があまり進んでいないとこを認識していました。彼らは、核融合の実用化という科学史の中でも燦然と輝くであろう偉業を成し遂げるには、研究が不十分であると認識していました。また、核融合研究への資金供給が不十分であることも認識していました。それならば、2つのプレゼンテーションの内のどちららかに資金を集中的に投じるべきではないかと考える者が大勢を占めていました。さて、ギュンター・ヤネシッチのDEMOを押すべきなのか、MITのARCを押すべきなのか、ということになりました。MITの研究チームのメンバーは果たしてライト兄弟なのでしょうか?それとも、サミュエル・ピエールポント・ラングレーなのでしょうか?という議論が為されるようになったのは理のあることでした。(ラングレーは、スミソニアン博物館の館長で、1903年に非常に高価な有人飛行機エアロドローム号をポトマック川に沈没させた。)
ホワイトがプレゼンテーションを行った後、MITの研究員たちはStubb’sBar-BQというレストランへ昼食に出かけました。テーブルには赤いチェックのクロスが掛かっており、食事には沢山の紙ナプキンが付いてきました。テーブルを囲んだ者のいずれもが自分たちの研究への主たる資金援助が1年以内に打ち切られてしまうことを知っていました。マムガードが回想して言っていました、「本質的には私たちは解雇通知を突き付けられたようなものでした。それでも、研究室を去る者はおらず、皆でランチを囲んでいたんです。そこで、全員で考えてみたんです。誰も研究室を去らないのだが、何で去らないのか?その判断は本当に正しいのか?自分たちが見込みがあると思って研究している核融合は、本当に見込みがあるのか?HTS(高温超伝導体)は本当に核融合を劇的に前進させる画期的なものなのか?などいろんなことを議論しました。ホワイトと研究員たちはARCやSPARCを実用化の為に必要なことの詳細を紙ナプキンに書き出していきました。それらを実用化するためにはどの位のコストが必要になるかも計算して書き出しました。ホワイトは私に言いました、「その時おぼろげながら実用化の筋道がうっすらと見えてきたんです。核融合の実用化は可能だと確信てきたような気がしました。」と。皆で食事をしながら、彼らは何とかして必要な資金を集めるべきだとの結論に至りました。寄付を募るなり、ベンチャーキャピタルから投資してもらうなりしてでも、何とかして資金を集めるべきだということになりました。それが出来れば、間違いなく核融合発電は現実のものとなるだろうと彼らは確信していました。