概説 AI の仕組み!新たなテクノロジーを普及させる為には、多くの者がどう機能するかを理解する必要がある

樹木限界線( The Tree Line )

 AI の普及によって、セットデザイナー(舞台装置家)やコーダー(コードを書く人)は失業するのだろうか?私はそうは思わない。コーダーの場合、新しいプログラムや更新されたプログラムに対する需要は非常に多い。しかし、AI は必ずしもその需要をすべて満たすべくコードを書けるわけではない。人間の持つクリエイティブな能力が AI には欠けていて、対応できないケースもあるからである。AI ができないこととは何なのか?

 その問いに答えるには、AI というテクノロジーの能力と限界の両方について考える必要がある。AI にプロンプトに応えて新しい幻想の木を 1 本出現させるように命じると、ある種の新しいものが生成されて世界にもたらされる。これはある意味、創造性があると言える。しかし、ここまで説明してきたことを思い出して欲しいのだが、木と木の間の開けた空間に幻影の木を呼び出すことは可能であるが、幻影の木を他の木より高くすることはできない。いわゆる樹木限界線がある。そのことは、AI の創造性に上限があることを強く示唆している。

 ところで、人間の脳にはこのように制限があるのか?人間は木を高くすることができて創造力に限界はないのか?AI も木を高くすることができるのか?これらの重要な疑問についての見解は研究者の間でも分かれている。現時点では、人間の脳と AI の両方の思考プロセスについてわかっていることが十分ではないので、結論は出ていない。だが、既に人類は AI を使い始めているわけだから、人間と AI の創造力について推測して論じたい。私の推測では、人間は AI の比喩的な意味での木々よりも高いところに到達できると思う。その推測が正しいとすれば、文明の上限を下げるような罠を避けることができそうである。AI の危険性の 1 つは、将来起こりうることの全てが、過去に既に起きたことと近似性があるため、AI が全てに対処できるかのように私たちが行動し始める可能性があることである。私たちはこの思い込みに抵抗すべきだと思う。

 AI の能力に関してはさまざまな議論がある。AI の弱点が十分に理解されていないという問題がある。そのため、AI についての議論では、両極端な意見があり、両者は対立している。一方に、AI の熱狂的な信奉者たちがいる。彼らは。超巨大な頭脳が構築されつつあり、それがすべての問題を解決するか、あるいは人類を絶滅させるだろうと考えている。他方、AI にあまり価値を見出せない懐疑論者たちがいる。懐疑論者たちは、多くの場合、3 番目のステップ、すなわち、比喩的な意味での木々が新たなコンテンツを生成するプロセスに着目している。計算言語学者のエミリー・ベンダーの研究チームは、このステップに焦点を当て、生成 AI を「確率論的オウム( stochastic parrots )」と表現し、統計を使用して既存の情報を再利用し、オウムのように人間の言葉を繰り返しているにすぎないと指摘している。同様に、昨年 2 月に当誌に掲載されたエッセイでテッド・チャン( Ted Chiang )は、生成 AI は訓練でクロールしたデータをぼやけた形で生成しているに過ぎないと主張していた。


 私は、このチャンのエッセイを読んで感心した。概ね同意できる。しかし、考慮に入れていないものがある。第 4 ステップ、つまり、比喩的な森の中に新しい木を呼び出すステップである。これらの木々を呼び出す時に、生成 AI は訓練で使ったデータ内で認識される近接性(それまで明示されていなかった)を明示する。事前に多くの潜在的な組み合わせをリストアップする方法はないので、このプロセスを創造的なものと考えることができる。しかし、その限界も見えてくる。

 私は思うのだが、新しい木が他の木の樹冠の高さに向かって伸びていくが、通常はその高さを超えないというイメージは、有用でバランスの取れたものである。それは、AI は訓練したデータを吐き出すだけではないという見方と異なる見方を提供するものである。また、AI が超越的で無制限な知性の形態になれそうもないことを暗示するものでもある。木と木の間を埋めることは素晴らしいことだが、木の樹冠の位置を高くすることと混同してはならない。樹冠の位置を高くするためには、訓練で使うデータの価値を最大化するしかない。それは非常に重要なことである。最新の AI の進歩に寄与する。