Can Ayatollah Khamenei, and Iran’s Theocracy, Survive This War?
アヤトラ・ハメネイとイランの神権政治体制はこの戦争を生きのびることができるか?
The future of the Islamic Republic may be shaped more by the country’s culture and politics than by the military prowess of its opponents.
イスラム共和国の将来は、敵国の軍事力よりもむしろ、国の文化と政治によって形作られるかもしれない。
By Robin Wright June 23, 2025
日曜日( 6 月 22 日)にアメリカがイランの核施設 3 カ所を爆撃した。わずか数時間後にイランのマスード・ペゼシュキアン( Masoud Pezeshkian )大統領はテヘラン( Tehran )のエンゲラブ広場( Enghelab Square )で数千人の反米デモ参加者に加わった。エンゲラブとはペルシャ語で「 revolution (革命)」を意味する。群衆は怒り狂っていた。たくさんのプラカードが振り回されていた。「大決戦への準備はできている( ready for the big battle )」とか「復讐、復讐( revenge, revenge )」などの文字が踊っていた。あるポスターではドナルド・トランプ大統領が唸り声を上げる吸血鬼の姿で描かれていた。イランの現政権は以前から、プロパガンダのために多くの支持者を動員したり、ソーシャル・メディアで都合の良い画像を流布してきた。しかし、アメリカ軍とイスラエル軍による 10 日間に及ぶ砲撃を受けた直後に見られた横断幕の多くは以前のものと異なった。誇り高さは健在であったが、過激さは無くなっていた。「イランはわれわれの祖国だ」と書かれたものが見えた。「われわれの祖国は名誉とともにある。イランの御旗はわれわれの誇り」。
月曜日( 6 月 23 日)の深夜に、トランプ大統領はトゥルース・ソーシャル( Truth Social )で、イランとイスラエルは 「完全かつ全面的な停戦( Complete and Total CEASEFIRE ) 」に 「完全に合意した( fully agreed ) 」と述べた。この戦争の帰結を決めるのは、敵対国の軍事力ではなく、イランの文化と政治であるかもしれない。物議をかもしているイランの核開発計画は、より大きな難問の一部にすぎない。アメリカとイスラエルは、46 年間の緊張に満ちた敵対関係にあったイラン・イスラム共和国( the Islamic Republic )と共存できるだろうか?また、最高指導者アーヤットラー・アリー・ハメネイ( Ayatollah Ali Khamenei )とイスラム神権政治体制は、イスラエルの軍事作戦を生き延びることができるだろうか?
トランプは、先週末にアメリカ空軍のステルス機とバンカーバスター爆弾( bunker-busting bombs )の配備を済ませた。これは前例のないことである。その上で、イランに敵対行為の停止と交渉再開を要求した 。「中東のいじめっ子( the bully of the Middle East )であるイランは、今こそ和解しなければならない」と、彼はテレビ演説で語った。その後の国防総省でのブリーフィングで、国防長官ピート・ヘグセス( Pete Hegseth )は、わずか25分間の真夜中の鉄つい作戦( Operation Midnight Hammer )は「+体制崩壊を目的としたものではない」と記者団に語った。しかし、日曜日( 6 月 22 日)の午後には、トランプ大統領はトゥルース・ソーシャルに、「『体制崩壊( Regime Change )』という言葉を使うのは政治的に正しくないが、もし現在のイラン政権がイランを再び偉大な国にすることができないのなら、なぜ政権交代が起こらないのだろうか?MIGA( MAKE IRAN GREAT AGAIN )!」と投稿した。
イスラエルはアメリカ以上に敵意むき出しである。イスラエル国防相のイスラエル・カッツ( Israel Katz )は、ハメネイは 「現代のヒトラー( modern Hitler ) 」であり、「生存し続けることは許されない 」と述べた。月曜日( 6 月 23 日)にイスラエルは、イランによる弾圧の最大の象徴である 2 つの施設を攻撃した。数千人の反体制派が収容されていることで知られるエヴィン刑務所( Evin Prison )の入口と、防革命衛隊( the Revolutionary Guard )の準軍事組織で反体制派を弾圧するバスィージ( the Basij )の本部を攻撃した。また、その他の国内治安拠点も攻撃した。イスラエル国防軍( the Israeli Defense Forces )は声明で、攻撃した施設は 「国土防衛、人民弾圧、体制維持 」で重要な役割を担っていたと述べた。
トランプ大統領の停戦発表の前に、アメリカの攻撃に対するイランの予想された反応、すなわち、この地域で最大のアメリカ軍施設であるカタールのアルウデイド空軍基地( Al Udeid Air Base )への短距離および中距離ミサイルの集中砲火があった。政治および軍指導者で構成され、最高意思決定機関であるテヘランの最高国家安全保障会議( the Supreme National Security Council )は声明で、アメリカが週末に使用したのと同数のミサイルを発射したと述べた。この反応は、アメリカが革命防衛隊コッズ部隊( the Revolutionary Guard’s Quds Force )の指導者、カセム・ソレイマニ( Qassem Suleimani )将軍を殺害した後のイランの報復と全く同じ形である。当時のイランはイラクのアイン・アル・アサド基地( the Ain al-Asad base )のアメリカ軍にミサイルを発射した。その後、敵対行為はエスカレートしていない。今回は、テヘランが事前に攻撃の警告を送ったと報じられている。すでに先週には、数機のアメリカ軍機と艦船が移動を済ませていた。
イラン国民の内の数百万人は、ハメネイが死んでも悲しまないだろうと推測する。彼は期せずして指導者となった人物で、他の指導者が予期せぬ死を遂げたことで最高位の座に就いただけである。1981 年に大統領に就任した時、彼は中級レベルの聖職者でしかなかった。前任者はテロで命を落としていた。その 6 年後、私はニューヨークのウォルドルフ・アストリアホテル( the Waldorf-Astoria )の豪華な部屋で彼と朝食を共にした。それは彼が唯一西側諸国を訪問した際のことである。国連総会の開会式で演説するためだった。私が話した際に感じたのだが、彼にはカリスマ性が欠けており、世間知らずで、そして知的な深みも無かった。革命防衛隊の隊員の 1 人が朝食の肉を切り分けようと身をかがめている間、彼は扇動的な言葉をぶつぶつとつぶやいていた( 1981 年にテヘランのモスクで演説中に彼は右腕の機能を失った。テープレコーダーに仕掛けられた爆弾が爆発したからである。私と会った時、彼の右手は脇に垂れ下がっていた)。1989 年、革命指導者のルーホッラー・ホメイニ( Ayatollah Ruhollah Khomeini )が後継者未定のまま急逝した後、ハメネイが後継者となった。ハメネイは政治基盤が脆弱だったため、軍部の支援を仰いだ。以来、両者は互いに力を与え合っている。
イスラム共和国の運命は、必ずしもその統治者である宗教指導者の運命に左右されるわけではない。「ハメネイが指導者としてこの戦争を生き延びる可能性は低い。暗殺によって文字通り表舞台から消される、もしくはこの戦争がイランにとってあまりにも悲惨な結末を迎え、辞任を余儀なくされるかのどちらかである」と、欧州外交評議会( the European Council on Foreign Relations )のシニアフェロー、エリー・ゲランマイエ( Ellie Geranmayeh )は私に語った。ハメネイには、最悪の選択肢しか残されていない。しかし、彼はいかなる犠牲を払ってでも無条件降伏( unconditional surrender )だけは避けるだろう。「頭に銃を突きつけられて降伏したイランの指導者として歴史に名を残すより、殉教者として処刑されることを選ぶだろう」とゲランマイエは述べる。
イラン人の大多数はシーア派( Shiite )である。この宗派は、預言者ムハンマド( the Prophet Muhammad )の死後、7 世紀に主流派であったスンニ派( Sunnis )との主導権をめぐる政争の中で生まれた。シーア派は、不正の中で生きるよりも正義のために戦って死ぬ方が良いと説く。初期のシーア派指導者であるイマーム・フセイン( Imam Hussein )は、ウマイヤ朝( the Umayyad dynasty )時代にスンニ派と戦った。わずか数十人の戦士しかおらず、数で圧倒的に劣勢で死ぬ運命にあることを知りながらも戦った。殉教は敬虔なシーア派にとって今もなお中心的なテーマである。私は数十年にわたりイランを旅してきたが、イランは中東で最も世俗的な国の 1 つである。しかし、この信仰の歴史と伝統は、今もなお多くの人々の文化や考え方を形作っている。イラン人は世界的に見れば宗教的にも民族的にも少数派である。そのことが外国による征服に対する実存的な恐怖を生み出している。
「シーア派には抵抗の文化がある」と、イランの元国会議員ファテメ・ハギガチュー( Fatemeh Haghighatjoo )は語る。彼女は 2000 年に 32 歳で初当選した。イランで最年少の女性議員だった。2004 年の選挙では、政治犯への拷問と不正選挙について当時の政権を非難したことで、再選を阻まれた。その 1 年後、彼女はテヘランを離れた。現在はマサチューセッツ州に住んでいる。「イラン人は基本的に権威主義には反対で、この国で起こっていることを好ましく思っていない」と彼女は語る。しかし、彼女はハメネイ政権が突然崩壊するとは考えていない。ハメネイの置き換えは比較的容易であると彼女は言う。フランスとベルギーの法体系をモデルとしたイラン憲法の第 111 条は、大統領、司法長官、そして護憲評議会の聖職者からなるトロイカ体制が、指導者が職務遂行能力を失った場合、あるいは解任された場合にその職務を引き継ぐことを規定している。その後、8 年ごとに民主的に選出される 88 人からなる専門家会議が新たな指導者を選出する。
ほぼ半世紀を経て、イラン・イスラム共和国の制度は不具合が目立つようになっている。また、行政、立法、司法、軍、諜報の各部門間で激しい対立が続いている。だが、いざこざはあるものの彼らの多くが体制存続を切望していると、1979 年のアメリカ大使館占拠事件で人質となった 52 人の外交官の 1 人、ジョン・リンバート( John Limbert )は私に語った。「彼らは権力を愛し、それを維持し、他の者たちによる権力への介入を阻止してきた」と彼は語る。「良くも悪くも、彼らは強靭なシステムを築き上げた。いずれの組織も第一世代の革命家やその信奉者や関係者で占められている。しかも男しかいない」。リンバートによると、過去 2,500 年の歴史の大半でイランは独裁者によって率いられてきた。「中には悪い者もいれば、恐ろしい者もいた。王冠をかぶっている者もいれば、ターバンを巻いている者もいれば、軍服を着ている者もいた」と、リンバートは言う。もし現体制が崩壊した場合には何がおこるのだろう。彼は警告する。「なぜそれが良い方向に進むと想像できるのか? 1979 年にはイラン国民の多くは考えていた。『皇帝を排除すれば、すべてが良くなる』」。
イラン革命以来、イラン・イスラム共和国は国内外の敵からの痛烈な攻撃に耐えてきた。1981年、出来たばかりの政権はムジャーヘディーネ・ハルグ( the Mujahideen-e Khalq:イランの反体制武装組織。人民の戦士の意)による 2 度の大規模爆撃を生き延びた。この爆撃で大統領、首相、司法長官、国会議員 27 名、その他高官数十名が死亡した。1980 年にはイラクの大統領サダム・フセインが侵攻してきた。これにイランは 8 年間持ちこたえた。イラン革命の拡大を恐れたレーガン政権はイラクを支援した。イラクは化学兵器を使用し数万人のイラン軍兵士を殺害したことが確認されている。イランは 1988 年にしぶしぶ国連安保理の停戦決議を受諾した。ハメネイ政権はサダム政権後のイラクで現在主要な役割を担っているシーア派の反体制グループを支援し武器供与することで報復を果たした。イランは、何度も困難に直面した。1,500 回を超えるアメリカによる制裁も乗り越えた。制裁によって、数千億ドルもの歳入が失われたと報じられている。また、1999 年の学生蜂起、2009 年の大統領選挙後の緑の運動( the Green Movement )、2017 年以降の物価高騰に対する抗議活動、そして 2022 年の「女性・生命・自由運動( woman, life, freedom” movement )」など、散発的な全国規模の抗議活動を鎮圧することにも成功してきた。これらすべてにおいて、「独裁者に死を( Death to the dictator )」というスローガンが掲げられてきた。
ハーバード大学卒でイランで元編集者を務め、「 The Reign of the Ayatollahs: Iran and the Islamic Revolution:未邦訳、アヤトラの治世 イランとイスラム革命」の著者でもあるショール・バハシュ( Shaul Bakhash )は、現在のイランの混乱は過去に目にしてきた多くの兆候によって予期することができたと私に語った。その兆候には、現在も続く大規模な街頭抗議活動も含まれている。バハシュによると、多くのバザールが閉鎖されたという。混乱が原因ではなく、抗議活動を防ぐためである。重要な石油産業や公務員のストライキも頻発している。「現時点では、体制崩壊の兆候は見られない」と彼は述べる。そして、現在の厳しい状況下においても、「反体制派を主導する可能性のある人物の中に声を上げる者はいない」と付け加えた。
しかし、長期的には現状維持も受け入れられないかもしれないとゲランマイエは述べる。もしハメネイ政権が外交的な解決を受けて現下の戦争状態から脱したとしても、この国の社会契約( social contract )を根本的に見直さなければならないだろう。社会契約とは、ハメネイ政権がイラクとアフガニスタンへのアメリカの侵攻以来 20 年間、イラン国民に政治的、社会的、経済的権利を制限する代わりに安全保障を提供してきたことである。過去 10 日間にわたるアメリカとイスラエルによる空爆の驚くべき規模を考慮すると、イランの神権政治( theocracy )体制がもはや契約通りの保護を提供できないことが明らかである。
ユートピア的( Utopian )、宗教的( religious )、そしてイデオロギー的( ideological )な革命は、その絶対主義的な目標と民衆の高い期待を満たせなければ、その持続力には自ずと限界がある。ソビエトは、政治的にも経済的にも急速にグローバル化する世界において、共産主義体制を維持できなかった。南アフリカは、3 つの異なる人種のために住宅、教育、医療、インフラを分離・隔離する必要があり、アパルトヘイトによる国際社会での孤立とそのコストに耐えることができなかった。
イランでは生活があらゆるレベルで悪化していると、弁護士で元国会議長メフディー・キャルービー( Mehdi Karroubi )の息子であるモハンマド・タギ・キャルービー( Mohammad Taghi Karroubi )は私に語った。2009 年に聖職者であった彼の父親は、ミール・ホセイン・ムーサヴィ( Mir-Hossein Mousavi )前首相と同様に、保守派で現職のマフムード・アフマディーネジャード( Mahmoud Ahmadinejad )に挑戦すべく大統領選に立候補した。2 人の新人候補は敢え無く敗北した。両陣営は投票用紙の不足など不正があったと内務省に抗議した。緑のたすきを巻いた 2 人は、グリーン・ムーブメント( the Green Movement )と呼ばれた民主化運動を主導した。数百万人が約 6 カ月間抗議活動を続けた。2 人とも 15 年近く自宅軟禁状態に置かれた。「将来、多くの者たちが再び街頭で活動を繰り広げるだろう」と、キャルービーは WhatsApp で私に語った。彼はロンドンにいた。しかし今のところは、アメリカとイスラエルの侵略のため、イラン国民のほとんどは沈黙を貫いている。「戦争が終わった暁には」と彼は語る。「イラン国民は声をあげるだろう。体制への批判が止むことはないだろう」。 ♦
以上
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