殺害された子供の画像を公開することの是非 報道メディアが統制しても、SNSに上がるのを防ぐことはできない!

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殺害された子供たちの映像は公にすべきか

It’s time for Americans to rethink their squeamishness about releasing the photos of the youngest victims of mass violence.
アメリカは、嫌悪感を理由に銃撃事件の年少の犠牲者の画像が公開されない状況を再考すべきである。

By Jay Caspian Kang

November 28, 2023

1.殺害された子供の残酷な画像は公開されるべきか?

 哲学者ジャン・ボードリヤール(Jean Baudrillard)は、1991年に発表した3部構成の著書で、イラク人犠牲者が10万人を超えた湾岸戦争は実際には起こらなかったと主張した。彼独特の主張であったが、彼のその主張は内部矛盾に満ちており、一見反動的なものと誤解される内容でもあった。(ボードリヤールは当初、湾岸戦争は実際には起こりえないだろうと書いていたが、もちろん実際には起こったのだ。)しかし、その主張は、いくつかの真の明快さで満たされている。彼の最終的な主張によれば、起こったことは戦争ではないという。そうではなく、片方が一方的に空爆で虐殺され、徹底したメディア統制が行われただけだという。西側諸国の人々が目にしたのは、パトリオットミサイル(the Patriot missile)やステルス爆撃機(the stealth bomber)などの最新のテクノロジーによる爆撃や空爆のライブ映像(live feeds)だった。湾岸戦争は、新車のお披露目のCMのように報道されたのである。軍幹部や外交政策専門家の姿をしたセールスマンが、さまざまな新機能を紹介し、それがケーブルニュースで流され続けたのだ。茶の間にいる視聴者は、敵の戦闘員が死ぬ場面や家々が破壊される映像を目にすることはなかった。

 湾岸戦争では殺戮があったが、アメリカ人が目にしたのは血飛沫が飛ぶ残虐なシーンではなく、軍事関連新技術のデモンストレーションであった。一方、ガザの戦争では、おぞましい映像が絶え間なく提供されている。特にソーシャルメディア上には夥しい数の殺されたり負傷した子供たちの映像がアップされており、世界中の人々にトラウマを植え付けている。世界中の人々が、砲弾が病院や学校や民間人が住むアパートを直撃する光景を目にしている。そうした映像が出回るのを止めることは、メディアへのアクセスを厳しく制限する能力の高いイスラエル軍をもってしても不可能なようである。私は、この戦争が残す永続的な影響は、長年紛争が続くことによる地政学的な断絶であると推測する。しかし、多くの子供を含む罪のない人々がさまざまな形で殺戮される映像が出回ったことによる影響も残ると推測する。

 そうした映像を見る際に、どちらかに肩入れして見るべきではない。また、晒される映像は一方を悪者にするような形で編集したものばかりになってはいけない。子供たちが殺戮されている映像、父親が死んだ娘を担いで爆撃された通りを歩いている映像、イスラエル南部で子供たちが死んでいる映像(イスラエル国防軍が提供しているようである)があるのなら、世界の人々はいずれも見るべきである。

 ここアメリカでも、子供たちが亡くなる事件が後を絶たない。亡くなった子供の映像を目にすることはほとんど無い。学校で起きた銃乱射事件の犠牲者は、亡霊のような痕跡を残すのみである。私たちは彼らが死んだ際の映像を目にすることはなく、無残な娘や息子の死体を抱いて嘆き悲しむ親の映像を目にすることもない。その代わりに私たちが目にするのは、監視カメラが捉えた学校の廊下をうろつく犯人の映像、殺害された子供が笑顔で写る生前の学級写真、記者会見で震える声で話す気丈な両親、夜間に死者数の最新情報を発表する警察官の顔など、さまざまな周囲の状況を示すものである。こうした映像は、何度も繰り返し見るテレビ番組のスタジオセットのように感じられるほど、見慣れたものになっている。第1幕では、犯行現場となった学校の空撮映像が映し出される。そして、犯人が降り立った校庭をカメラマンが捉える。そして、地元の警察署長が厳しい表情で全国に情報を伝える。彼の顔は、スポットライト照明が浴びせられて報道記者の群れの中に浮かび上がって見える。

 そうした映像は、ボードリヤードが湾岸戦争の際に指摘したようなメディア統制されたものではないわけだが、繰り返し何度も目にすることで、私たちの犠牲者に対する関心は高まる。とはいえ、私たちは教室内の光景を想像することしかできない。学校で銃乱射事件が起きたと聞くたびに、私は自分の息子や娘が、銃を持った男がドアから入ってきて恐怖に慄きながら顔を上げる姿を思い浮かべてしまう。しかし、そこから先のことを想像することはできない。なぜなら、ほとんどの者は、実際の殺戮現場に出くわしたことなどないわけで、イメージが湧かないからである。もし、多くの親御さんが、自分たちの子供の殺戮場面の映像が公開されることが、人々の怒りを呼び覚まし、大量殺人を止める、もしくは減らすという効果があると確信できるのであれば、ガザの子供たちの殺戮場面と同じように、学校で殺害される子供たちの映像を公開すべきなのだろうか?銃撃で殺されたのであれば銃規制(gun control)が必要であろうし、精神錯乱者の狼藉であれば早期の精神医学的介入(early psychiatric interventions)が必要である。いずれの場合であっても、たとえ銃規制反対者や精神障害者の権利保護を主張する者が反対したとしても、殺戮現場の映像を公にし白日の下に晒すべきである。かつて、メイミー・ティル(Mamie Till)は息子のエメット(Emmett)が惨殺された時、弔問に訪れた者に棺の中を見せた。彼女は、悲惨な姿を多くの者に知ってもらうことが重要だと思ったのだ。彼女は言った、「私の子供がどんなひどい目にあったか人々に知ってもらいたい。」と。そう、とにかく悲惨な状況をオープンにすることは何よりも重要なことである。(訳者注:メイミー・ティルの息子エメットは、白人女性に口笛を吹いたとして因縁をつけられ白人に酷い方法で殺された。メイミーは世界に殺害の残酷さを示すため顔が見えるように棺が開いたままエメットの葬儀を行った)