2.SNSが発達し残忍な画像を隠すことは不可能だから、公開すべき
今月初め、ワシントン・ポスト紙(the Washington Post)が「繰り返されるテロ:AR15(5.56ミリ口径ライフル)によって引き起こされた惨劇の秘蔵映像(Terror on Repeat: A rare look at the devastation caused by AR-15 shootings)」と題した長大な記事をマルチメディア展開で配信した。中にはほとんどのアメリカ人がこれまで見たことのない銃乱射事件の映像も含まれていた。テキサス州サザーランド・スプリングス(Sutherland Springs)のファースト・バプティスト教会(First Baptist Church)の弾痕だらけの壁、ピッツバーグ(Pittsburgh)のシナゴーグで発見された弾痕のある祈祷書、サンディフック小学校(Sandy Hook Elementary)の粉々になったガラスの壁、テキサス州ウバルデ(Uvalde)のロブ小学校(Robb Elementary)の血にまみれた教室の床などである。
この記事の中には、同紙の編集部部門トップのサリー・バズビー(Sally Buzbee)の「目標は、2つの重要な目的のバランスをとることだった。」というコメントがあった。目的の1つは、一般の人々に、大量殺人犯が元々は戦争用に設計された銃器を容易に入手できる状況であることを認識してもらうことである。もう1つは、AR15による銃撃事件によって直接影響を受けた被害者の家族や地域社会にも配慮することである」。
バズビーによれば、その記事を配信するに当たってはさまざまなプロセスを経たという。その記事のすべての画像は、生々しいコンテンツを掲載する際の同紙の標準的な承認プロセスを経ているという。また、事前にダート・ジャーナリズム・アンド・トラウマ・センター(the Dart Center for Journalism and Trauma:世界中の暴力、紛争、悲劇を報道するジャーナリストのためのシンクタンク)によるトレーニングも実施しているという。そのトレーニングは、心をかき乱す写真を閲覧し、それを掲載することが読者にどのような影響を与えるかについて吟味する能力を高めるものである。つまり、例の配信記事の映像等は、すべて同社の正当なプロセスを経て編集され、吟味され、責任を持って配信されたものである。こうしたプロセスを経たので、このポスト紙の配信記事は、子供の死体や血の海に焦点を当てているとはいえ(ウバルデの教室の血の海の画像があったものの)、子供の悲惨な死体自体はほとんど見えなくなっている。
顕著な例外が2つあった。ラスベガス(Las Vegas)の音楽フェスティバルで起きた銃乱射事件の何十人もの死者が地面に横たわっている画像があった。ロブ小学校(Robb Elementary)の廊下に2列に白い遺体袋が並べられている画像もあった。後者の画像は非常に衝撃的である。それゆえ、遺体袋は恐怖を伝え、大量銃撃事件の残酷さを完全に描写するのに十分であるという議論がある。白い遺体袋は中身が見えないがゆえに、死者を特定することはできないし、白い無地の袋自体は何もアピールしないわけで、それを見た者が事件の背景に関して予断を持つようなこともない。ライムグリーンと水色に塗られた明るい廊下は、アメリカのどこの小学校にもありそうなものだ。白い遺体袋には誰の遺体が入っているかわからない。そうした白い遺体袋の匿名性ゆえ、それを見ると残酷にも殺されている世界中の多くの名もない子供たちのことを想起してしまう。10月7日(訳者注:ハマスがイスラエルを襲撃した日)以降、私たちは非常に多くの白い遺体袋を目にしている。
しかし、ポスト紙が公開した映像が十分なのかどうか、私にはわからない。これはポスト紙のせいではないし、ポスト紙の徹底的で独創的な報道姿勢は評価されるべきものである。しかし、ポスト紙は報道機関として慎重を期すべきであり、ダート・ジャーナリズム・アンド・トラウマ・センターのような他の機関の勧告も考慮しなければならないため、おぞましい画像を公開するか否かは常に既存の基準と合意に従って判断される。判断する際には、公開する画像のジャーナリスティックな価値も評価される。その結果として、この配信記事では、AR15による銃撃事件の現場の映像が公開されたのである。こうした判断プロセスの特殊性により、より政治的な力が与えられるかもしれない。しかし、若干ではあるが軽薄さも感じる。さて、AR15銃撃事件の映像を目にしたが、私たちのこの事件に対する理解は深まったのか。思うに、ポスト紙は、この画像が伝える恐怖がAR15銃撃事件に関する議論をはるかに超えて広がっていることを理解しているのだろう。
ガザで死んだ6人の子どもたちの写真についてのニューヨーク・タイムズ紙(the New York Times)の素晴らしいコラムで、リディア・ポルグリーン(Lydia Polgreen)は記している、「ニュース・メディアは、もはや映像の発信をする必要はない。ソーシャルメディアが圧倒的な量の残酷なイメージを垂れ流しているからだ。」と。ポルグリーンは、ある不快な将来の可能性について言及している。それは、アメリカの学校で銃乱射事件が起きた時に、子供たちの死体の画像を世界中の人たちが最終的に目にするようになるが、その際にそれらの画像はソーシャルメディア経由のもので、学校内にいた誰かが撮影したものであるということである。残酷なことに、銃乱射事件の犯人自身が画像をソーシャルメディアに上げる可能性もある。現在、報道機関や警察組織が守っている基準のおかげで一定の歯止めが効いていて、合理的な判断によって、犯行現場の画像の公開は厳重に管理されている。しかし、その歯止めも必然的に決壊するだろう。早かれ遅かれ、惨殺された子供たちの画像が容易に出回る日が来るだろう。その時、報道メディアが直面する問題は、既に世界中の人々が見てしまった凄惨な画像を、自分たちはオブラートに包んだ形で提供すべきか否かということである。
ワシントン・ポスト紙のブズビーは編集後記で、同紙が犠牲者の家族に話を聞いたところ、亡くなった者の写真を公開することを快く承諾してくれた家族もいたと記している。しかし、同紙は最終的に、「あからさまに遺体の画像を見せることの潜在的なジャーナリズム的価値を、犠牲者の家族にもたらされる潜在的な害が上回る」と判断した。この判断は、完全に容認できるものである。しかし、同時に、最終的にどういった画像を公開し、どういった画像は公開しないという判断をするのは、誰であるべきかという疑問を提起するものである。どういったプロセスでそれを決めるべきなのか。あるいは、どこが、どういった機関がそれを決めるべきなのか。また、ワシントン・ポスト紙は被害者家族が画像の公開に同意しているのを無視し、ことさらに被害者家族を潜在的被害から守るべく画像を公開しなかったわけだが、それはなぜなのかという疑問もある。
被害者家族が殺された子供の映像の公開を許可しているのであれば、報道メディアは堂々とそれを公開すべきであるという主張をする者も少なくない。殺害された我が子の画像を公開することに同意した家族は、自分自身を公衆にさらすことになり耐え難い被害を被る可能性もある。また、公開に同意していない他の犠牲者家族にトラウマを与える可能性もある。また、亡くなった子供に口はないとは言え、そのプライバシーが蔑ろにされるわけで法律的な懸念もある。しかし、亡くなった子供たちの画像の公開については、実利的な観点で考える必要がある。世界中の人々が殺害された子供たちの死は当然のことながら耐え難いものであると認識しているので、彼らの画像には大きな感情的および政治的影響力がある。子供たちの惨殺死体を見せることをタブー視する風潮は、単に文明社会の目印として存在しているのではないし、趣味の良さを示すものとして存在しているのでもない。それは、何らかの理由で殺害された子供の死体の詳細を報じたり画像を公開することを嫌がり、とにかく抽象的なことしか報じない人たちがいるからである。銃製造業者やそのロビー団体、あるいは憲法修正第2条(the Second Amendment:人民が武装する権利を保証している)を擁護する政治家がそうであるし、自分の子供の学校で起こるわけでもないことに固執したくない世間一般の親御さんもそうである。
この6週間で、虐殺された子供たちの画像に世界が著しく反応することが明らかになったわけだが、そうしたものがこれまで公開されてこなかったのは何故かということを考えることは重要なことである。殺された子供たちの映像が非常に大きな重みを持つことは間違いなく、それ故、それは責任を持って扱われなければならない。しかし、だからといって、そうした映像を一般の人々に公開する試みは決して世論を操作することを意図しているわけではない。死んだ子供たちの画像を編集したり、弔意を示すことを口実にして公にしないことの方が、はるかに世論の操作を意図しているのである。♦
以上