5.永久凍土が融解して二酸化炭素が放出される
数十年前に、海底の永久凍土から放出される温室効果ガスに関する論文が発表されました。その論文は、北極圏の海底には時限爆弾が埋まっているような状況であると言及していました。膨大なメタンガスの元となる有機物が内包されており、それが一気に放出されれば生態系に壊滅的な被害が出るとして物議を醸しました。しかし、今のところ、メタンガスが一気に放出されるような事態は発生していないものの、永久凍土の融解はゆっくりではありますが確実に進行しています。ノーザンアリゾナ大学で永久凍土の融解と気候変動の研究チームを率いているテッド・シューアが私に指摘したのですが、永久凍土が一気に大量に炭素を放出することはないし、大気中の二酸化炭素濃度が一晩で倍増することもないでしょう。二酸化炭素の放出は、そういう形ではなくて、北極圏の全域から、長期間にわたってゆっくりと漏れ出し続ける形になるでしょう。化石燃料を燃やすことによって、人類は既に二酸化炭素を大量に放出しているのですが、それには劣るものの、永久凍土の融解によって排出される二酸化炭素の量もかなりのものです。
2018年、国連の気候変動に関する政府間パネル(略してIPCC)が作成した報告書には、地球温暖化を確実に工業化以前から1.5℃以内に抑えるために、人為的に排出される温室効果ガスの上限を約5,800億トンに設定すると記されていました。同パネルが、永久凍土の融解によるさまざまな影響を考慮し始めたのはごく最近のことです。その結果、永久凍土の溶解による排出量の予測は非常に幅広くなっており、温室効果ガスの排出量の推定等の際には、大まかな数値しか示されなくなりました。シューアが指摘しているのですが、永久凍土の融解によって排出される温室効果ガスの量は、IPCCが割り当てた量の5〜15%を占める可能性があります。
IPCCの予測では、永久凍土から排出される温室効果ガスの主要な原因が無視されていました。例の予測では、気温の上昇によって永久凍土がゆっくりと融解するという前提になっているのですが、サーモカルスト湖の融解や、永久凍土の急激な融解による排出は全く考慮されてないのです。そうしたことは予測不能なのですが、突発的に散発しています。マサチューセッツ州ファルマスにあるウッドウェル気候研究センターの気象学者スーザン・ナタリは、「そうした現象は、数億年とかの長期間で見れば話は別ですが、基本的には不可逆的なものです。」と言いました。
世界の平均気温は今世紀中に2.5度近く上昇しそうな勢いです。2021年11月にグラスゴーで国連は気候変動枠組条約締約国会議を開催しました。そこでは、全参加国が気温上昇を1.5℃以内に抑えるという目標を再確認しましたが、それを実現するための筋道は曖昧なままでした。気温上昇に関しては様々な予測が為されていますが、ほとんどの予測では、気温上昇は1.5℃以内には収まらないとされています。世界的に取り組んで地球温暖化を管理可能なレベルに維持するためには、気温を維持するのではなく下げるほどの対策が必要であると考えられています。「問題は、永久凍土の融解を止めることも、融解したものを元どおりに凍結させることも不可能であるということです。」とナタリは指摘しています。そもそも、自然を人類が制御することなど不可能なのです。ですので、永久凍土の融解によるメタンガスの排出を禁止する法律を成立させることは、どこの国の立法府においても無理でしょう。ナタリは、溶けた土壌を再び凍結させて、以前の姿のように戻すことは不可能だと言っていました。
北極圏全域で変化が起こっていて、かつてそのエリアの生態系は温室効果ガスを吸収する吸着剤の役割を果たしていたのですが、現在では排出源となってしまっています。私がチェルスキーに滞在していた時のことですが、私は域内を流れている河川のほとりにある施設を訪ねました。そこは、ドイツのマックス・プランク生物地球化学研究所の研究チームが管理しているものでした。そこの調査研究の責任者である主任研究員のマティアス・ゲッケデに施設内外を案内してもらいました。私たちは、ツンドラに生えている草を飛び越えながら、17年前にゲッケデたちが意図的にイェドマの地表部分を融解させた場所に行きました。意図的に融解させた目的は、永久凍土を融解させてみて、周辺にどのような影響が出るかを調べることでした。また、その付近の温室効果ガスの出入りにどのような変化がもたらされるのかを調べることも目的でした。
ゲッケデによると、イェドマを溶解させて観察を始めて1年後には、植生が吸収する以上の二酸化炭素が土壌から排出されるようになったそうです。まさしく、吸着剤が排出源に変わってしまったのです。その後、低木や樹木が生え出し、排出された二酸化炭素を吸収するようになりました。そして、二酸化炭素の吸収量と排出量が均衡する状態になりました。以前と違って、吸収量も排出量も多くなりました。ゲッケデは言いました、「均衡しているので、環境に重大な影響を及ぼしはしないと思い、ちょっと安心していました。」と。
しかし、木々には育つ限界があり、大きくなり続けるわけではありません。また、北極圏では、太陽光が降り注ぐのは夏の数ヶ月間に限定されており、光合成によって大気中の二酸化炭素を除去できる期間も限られています。それに対して、地中の微生物は、常に融解した永久凍土に含まれる有機物を分解し続けます。しかも、炭素が豊富に存在していますから、季節に関係なく代謝を続け二酸化炭素を排出し続けます。ゲッケデは言いました、「植生の成長には限界があります。つまり、炭素を吸収できる量には限界があるということです。対照的ですが、凍土の地表付近が融解した場合には、より多くの炭素が放出されることとなるのですが、それにはほとんど限界がないのです。」と。