The Miseducation of Maria Montessori
モンテッソーリ教育は考案者の理想とは違うものになった?
Her method was meant for the public. Then it became a privilege.
モンテッソーリ教育は、大衆向けに考案されたものでした。しかし、今では富裕層のみのものになりつつあります。
By Jessica Winter March 3, 2022
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私の娘がまだ小さかった頃、私は自宅マンションから数ブロック先にあった幼稚園の建物がとても気に入っていました。赤い縁取りとレンガの煙突を備えたチューダー様式の絵本に出てくるコテージのような建物でした。庭にある遊具類はすべて木製でした。その建物の1階の窓は、あり得ないほど深い緑色の背の高い茂みで隠されていました。建物の中身は見えなかったのですが、茂みの向こうには素晴らしい世界が待っているように感じられました。娘も喜ぶに違いないと感じていました。建物の中に初めて入った時には、期待通りであると感じられました。中には2歳から6歳までの子どもが何人かいました。どの子も真剣で落ち着いていて、時折、低い声でお互いを思いやるように話をしていました。子どもたちは、ブロックを積み上げたり、ビーズで何かを作ったり、文字盤を並べ替えたりしていました。そこで見たブロックやビーズや文字盤などは、その辺の商店で売っているものとは異なり、とても精巧に作られたものであることが分かりました。線上歩行(walking on the line)の時間には、子どもたちは床に張られたテープの上を静かに慎重に間隔をあけて何度も何度も歩いて往復していました。子どもたちは驚くほど統制がとれていました。それを見て私は呆然としたほどでした。
その幼稚園は私が住んでいた地域にあったモンテッソーリ教育を行っている幼稚園でした。私は少しばかり倹約すれば、どうにかして娘をそこに通わせることができると思いました。私は娘を入園させるために面接の予約をしました。面接の際には、園長から「お嬢さんにはピッタリだと思いますよ!」と言われました。それで、私はすぐにでも娘を入園させたいという衝動にかられました。1年間在籍するという契約書を渡されました。契約書を見て分かったのですが、その園はシー・オルグ(Sea Organization:サイエントロジーが運営する宗教組織)が運営していました。しかし、契約書にサインする前に、1週間かけてじっくりとお金の計算をし直してみました。その結果、クレジットカードで借金をしなければ授業料を捻出できないことが判明しました。それをしてしまうと、本当に余裕のない生活になってしまうと思いました。そこで、私は泣く泣く娘の入学願書を取り下げました。自分を慰めるために、モンテッソーリ風の100ピースカウントボード(counting board:そろばんの原形の玩具)をAmazonで購入しました。残念ながら、娘はほとんどその玩具に興味を示しませんでした。まだ乳幼児の息子の方が興味を持ったのですが、しきりにパーツを口に入れようとするので手放さざるを得ませんでした。
モンテッソーリ教育に興味があるが家計に余裕が無い親にとって、救いが無いわけではありません。というのは、モンテッソーリ教育の創始者であるイタリアの医師兼教育者であったマリア・モンテッソーリの思想と哲学は、社会に広く根付いているからです。ですので、モンテッソーリ教育を行っていると謳っていない幼稚園でもマリア・モンテッソーリの思想や哲学に沿った教育を受けることは可能なのです。個人毎に机を割り当てずにマットと子どもサイズのテーブルを使うこと、実体験を通じて学ぶことを重視すること、サークルタイム(子どもたちが敷物の上にあぐらをかいて座り、ニュースを共有したりみんなで話し合う時間)、選択タイム(子どもたち各々がアート、音楽、積み木遊びなど、興味のあることに思い思いに取り組む時間)などを取り入れている幼稚園は少なくありません。それらは、モンテッソーリ教育の哲学が元になっています。
20世紀初頭には、子どもが主体の教育法は画期的なものでした、個々の子どもの脳と身体の発育に合わせた教育という概念はそれ以前には無いものでした。モンテッソーリとその弟子たちの偉業は、そうした概念を世間一般に定着させたことです。さらに、彼女らは今日でも直感的には受け入れがたいと思われることを信じていました。彼女らは、子どもは本質的には、几帳面であり、強い労働倫理を持って自ら仕事に取り組むことができ、集中力も備わっていると信じていました。また、子どもが注意散漫になったり混乱するのは、周りの環境が混乱していることへの自然な反応であると考えていました。クリスティナ・デ・ステファノがマリア・モンテッソーリの伝記”The Child Is the Teacher(未邦訳)”を新たに書いたのですが、その中で彼女は記しています、「子どもは、整った環境に置かれ、正しく養育されると、すぐに興奮したり騒いだりしなくなり、静かで穏やかに過ごすようになります。また、自ら進んで仕事に取り組むようになります。」と。
整然としていて落ち着いた環境であれば理性的に子どもが育つという教育理念が生まれたのは、世界が混沌としていて混乱が広がっていた頃のことです。1897年、イタリアで初めて医学の学位を取得した女性の1人であったマリア・モンテッソーリは、ローマ大学を卒業したばかりで、その大学に付属する病院の精神病棟でボランティアとして働いていました。その関係で、市が運営していた殺風景な保護施設に行くこともありました。当時、カトリック教徒の間では、精神病は神の報いによるものであると考えられていました。しかし、モンテッソーリは、そうした保護施設に収容されている子どもたちに愛着を持って接していました。多くの子どもたちは障害があるが故に病院に入れられていました。しかし、中には親の養育が不十分なために栄養状態が悪いだけの者もいました。子どもの養育に興味を持ったモンテッソーリは、特別養護教育の先駆者であるエドゥアール・セギャンの著書を読んで感銘を受けていました。セギャンは、パリの保護施設に収容されている子どもにボール、ブロック、ビーズ、ボタン、身の回りにある道具などを使って訓練をしていました。また、モンテッソーリは、フリードリヒ・フレーベルの著書も読んでいました。フレーベルは、幼稚園という概念を生み出した人物で、彼の名を関した玩具「フレーベルの恩物(Froebel gifts)」は今でもとても有名です。糸や糸巻きや球形や円柱形の木片がセットになった玩具です。セギャンとフレーベルは、子どもたちは誰もが身の回りのものに触れたり試してみたいという欲求を持っていることを認識していました。また、子どもたちに無理やりそうしたものに触れさせるのではなく、自然と興味を持たせて触らせることが重要であることも認識していました。
1900年、モンテッソーリは29歳でしたが、ローマにあるイタリアで初の特別養護教員養成施設(Orthophrenic School:オルソフレニックスクール)の共同責任者に就任しました。研修を受ける者たちは、保護施設の子どもや、公立学校の授業についていけない生徒を相手にしました。モンテッソーリは2年間、1日に11時間以上も研修生や教師を指導したり、独自の玩具や教具の設計図を描いたりしていました。驚くべきことに、彼女が接していた子どもの何人かは、同じ歳の子どもが受ける小学校の試験に合格しました。しかし、モンテッソーリは結果を無視しました。モンテッソーリは、障害のある子どもたちの成績が高かったことは、自身の教育方法が認められたというよりも、イタリアの教育制度に欠点があることを示すものであると批判していました。
また、そのオルソフレニックスクールでは、モンテッソーリは個人的にも濃密な時間を過ごしました。彼女は、共同経営者のジュゼッペ・モンテサーノと恋仲となり、2人の子どもを秘密裏に出産していました。その子ども(男)は片田舎に住む乳母に預けられ、一方、モンテサーノは別の女性と結婚しました。モンテサーノと顔を合わせることに耐えかねたモンテッソーリはそのスクールの職を辞してしまいました。デ・ステファノによれば、その時、モンテッソーリは、生まれたばかりの息子を育てるという使命を犠牲にしてまでも注力してきた特別養護教育の仕事を投げ出してしまったのです。もし、モンテッソーリの生涯を描いた伝記映画が作られれば、おろらく悲劇的なストーリーとなることでしょう。しかし、話はそんな単純なものではなく、実際の出来事はもっと複雑だったようです。彼女は職を辞した後、公立学校で人類学的研究を進めました。それで、セギャンの著書(約600ページ)をイタリア語に翻訳し終え、ローマ大学にて講義をするようになりました。講義では、イタリアの学校の実践的改革案を提案していました。(彼女は、息子のマリオが十代の頃に一緒に暮らすようになりました。また、マリオは大人になってからは彼女の研究の重要な協力者の一人となりました。)
1906年、教育者として名を馳せていたモンテッソーリは、ローマの財界人の支援を得て、その改革を進める機会を得ました。翌年のエピファニー(公現祭)の日に、彼女は初めて保育施設「カーサ・デイ・バンビーニ(子どもの家の意)」を、貧困の激しい労働者階級の街、サン・ロレンソに建物を借りて開設しました。建物のオーナーの娘が責任者を任されていました。2歳から6歳までの約50人の子どもたちに、ボタン付け、水やり、色鉛筆でのお絵かきなどの活動をさせました。そうした保育施設をイタリアに複数開設しました。その後、ヨーロッパにも広げました。社会主義的思想が浸透している地域が最も受け入れやすい環境であることが分かりました。ナポリのカーサ・デイ・バンビーニでは、非常に貧しい子どもがいて、食事の作法を教えるのに苦労することもありました。フランスでは、第一次世界大戦で心に傷を負った子どもたちを支援するために、モンテッソーリによって保育施設がいくつも設立されました。しかし、心に傷を負った子どもたちも、悲惨な状況にもかかわらず、モンテッソーリ教育のメソッドで驚くべき成長を示しました。特に、文字を書く能力で著しい成長が示されました。木製の文字ブロックをボードに貼って言葉を作る玩具を使ったりして、丸暗記ではなく、楽しみながら学ぶことによって読み書き能力が急速に向上したようです。黙々と取り組む集中力もついたようです。
モンテッソーリは、自分が確立した教育方法を体系化し、著書を出してそれを詳述しました。その本は、アメリカでも1912年に出版されました。「モンテッソーリ・メソッド(The Montessori Method)」という題名でした。それは、当時として非常に先進的な内容で、現在でも広く読まれています。彼女が提唱する教育方法では、賞罰の無い育児が推奨されていました。自発的に挑戦する心と自制心を身に付けさせることを目指していたのです。そうした考え方は、ジャネット・ランズベリーやベッキー博士など現在アメリカで大人気の子育て専門家からも支持されています。しかし、当時はカトリック教会がまだ強い影響力を維持していた時代でしたので、モンテッソーリは激しい批判にさらされたようです。モンテッソーリは、10代の若者が悪い成績をとった際に非常に心を痛めている状況を嘆き、学校において学力評価をしないことを目指したり、全国標準テストに参加しない運動を起こしたりしました。成績やテストを重視することが有意義な学習を阻害することを示す多くの文献を残しました。また、デ・ステファノの著書によれば、モンテッソーリは、旧来の学校教育では伝統的に権威主義と競争が重要視されてきたが、それらは暴力を生み出すだけであると主張していたそうです。モンテッソーリには先見の妙があり、学校教育には効率的に犯罪者を作り出すという負の側面があることを当時既に認識していたのです。
「子どもには、1人1人に人格が備わっています。段階的に秩序を守り、冷静で、自発的で、他者と協調できるようになっていきます。」とモンテッソーリは著書に記しています。ある意味で、彼女の唱えた教育方法には逆説的な部分がありました。秩序を身に付けさせるために自由を与えました。また、教師は子どものしもべのような存在ですが、同時に強力な存在でもありました。1人1人の子どもがそれぞれ自分が興味を持ったことに取り組むわけですが、自由であるように思えるのですが、実はそれは半ば強制的であるので自由とはかけ離れているといえなくもありません。また、遊びや作業で使う道具は木製でなければならないという縛りがありました。