モンテッソーリ教育は素晴らしい?しかし、アメリカでは、モンテッソーリ教育の高級化&白人化が著しい!

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 デ・ステファノの著書を出版したアメリカとイタリアの出版社は、その著書のカバーなどには「子どもに任せて信じる(The Child Is the Teacher)。モンテッソーリ運動のメンバーではない著者が書いたモンテッソーリの初めての伝記。モンテッソーリ自身が書いた書簡、日記、メモ、文章等も収録」という宣伝文が踊っていました。しかしながら、1976年にジャーナリストのリタ・クレイマーが、国際モンテッソーリ協会に残っている資料やマリオ(モンテッソーリの息子)や他の家族へのインタビューを元に伝記を出版しているという事実がありますので、「初めての伝記」という主張にはいささか奇妙な響きがあります。デ・スティファノが書いた伝記は、クレイマーの伝記にも書かれてる出来事が記されており、同じような逸話が収録されています。また、しばしば歴史的、文化的、あるいは教育的な内容は削ぎ落とされています。ですので、クレイマーが書いた伝記のダイジェスト版のような内容になっています。

 デ・スティファノが書いた伝記が斬新だったのは、その独特のスタイルです。彼女は、モンテッソーリの人生を、生き生きと(いくぶん誇張が過ぎるきらいもあるのですが)描いています。1876年にローマで幼稚園を開設した頃のモンテッソーリが生き生きと描写されているところから始まっています。「マリア(モンテッソーリ)が教室で朗読をすると、全員が涙を流していた。」という記述もありました(本当に全員が泣いたのでしょうか?)。それが書かれていた章は短くて、テンポが非常に良いように思われます。11ページには、マリアが医学部の入学のために面接を受ける場面が記されています。彼女は暗闇の中で一人輝いているように見えます。彼女の先祖のことなどについての記述は全くありません。モンテッソーリの子孫についての記述も全くありません。例外はセギャンだけで、デ・スティファノはセギンの記述のために2章を費やしています。彼女が死ぬところで、その伝記は終わっています。

 さて、マリア・モンテッソーリの死後はどうなったのでしょうか。デ・ステファノは、モンテッソーリが唱えた教育理論を「大衆のための学校には適用不可能で、私立学校に通う裕福な子どもたちだけに通用可能」と信じている無数の懐疑論者を批判しています。しかし、非常に皮肉なことなのですが、モンテッソーリが最も貧しい人たちや最も力のない人々のために行った活動や理念が、エリートのための私立の学校で最も目に見える形で受け継がれています。サンロレンツォの実験の噂がローマ中を駆け巡った際に、最初にモンテッソーリの理論を採用したのはローマ市長と駐イタリア英国大使の2人でした。それから、まもなく、外交官や貴族などが自分の邸宅の片隅にモンテッソーリ教室を開くようになったのです。1911年に北米で最初のモンテッソーリ学校がウエストチェスターのジョージアン様式の邸宅に設置されました。12人の子どもがそこで学びました。6人は連邦準備制度の創設者であるフランク・ヴァンダリップの子どもでした。他はそのいとこや友人たちでした。ローマでモンテッソーリから教育を受けた教育者のヘレン・パークハーストは、その後、ニューヨークにドルトンスクールを設立しました。なんと、現在、そこで子どもを学ばせるためには5万7千ドルもの授業料が必要になります。モンテッソーリが確立した理念の影響は、ニューヨーク市のユニバーサル・プリKプログラム(Universal Pre-K Program :略してUPKプログラム、無料の公立小学校等に併設されている幼稚園)にも色濃く残っています。しかし、普通の公立の幼稚園等では、 コモン・コア・スタンダード(Common Core standards:全国共通の基礎学力標準。 数学と国語(英語)について、学年ごとに到達すべきレベルを全米共通で定めたもの)が導入されたことによって、数学や英語のドリルの点数を上げることが優先されるようになり、自由な遊びをする時間はほぼ皆無となり、モンテッソーリの教育理念は急激に廃れつつあります。(現在、私の息子はニューヨーク市のユニバーサル・プリKプログラムの幼稚園に通っているのですが、私はとても気に入っています。今日、米国には公立モンテッソーリ学校は数百あるだけです。イェール大学の教育学プログラムの事務局長であるミラ・デブスが指摘しているのですが、モンテッソーリ教育は「時間とともに白人化し、富裕化する」というパターンに陥りつつあるようです。

 モンテッソーリは名声を博し、その教育理論も有名になったわけですが、彼女は多くの夢想家と同様に後年は少し偏屈な人物になっていきました。デ・ステファノが著書に記しているのですが、モンテッソーリは名声を得るようになって、次第におべんちゃらを使うような人物を頼るようになりましたし、親しかった者に対しても偏執的なほどの不信感を持つようになってしまいました。アメリカで彼女の教育理論を広めるのに一役買った出版社の経営者のサミュエル・マクルアとも袂を分かつこととなりました。その際、狼狽したモンテッソーリの支援者の1人は「彼女は自分の友人が誰であるかを認識する能力を失ってしまったようだ。」と述懐していました。モンテッソーリは自身の教育哲学と理論に対して絶対的な信頼を置いていて、それが原動力となってモンテッソーリ教育は広がり、人気を生みました。しかし、同時に、モンテッソーリは、人気が出て広がっていくにつれて、根底にある教育理念や哲学が薄められて別のものになってしまうのではないかという恐れを抱くようになったのです。モンテッソーリ教育の理念が長く続いている理由の1つは、彼女が自ら構築した理論が崩壊しないように必死に努力をしたことです。彼女は、教師にモンテッソーリ教育の実践方法を訓練することと、教師を認定することについては、独占的に行って他の者にはやらせませんでした。また、モンテッソーリ教育の教科書や使う道具や玩具や教具の流通も厳しく管理しましたし、文字が書かれた積み木や算盤などにちょっと意匠を加えて、それの特許を取ったりもしました。

 モンテッソーリがコントロールしようとしたのは、自分自身の知的財産権でした。モンテッソーリは、40歳の頃、モンテッソーリ学校が増え続け、彼女の教育理論に対する需要が高まったことを受けて、ローマ大学の職を辞し、急成長するモンテッソーリの事業に専念する道を選びました。クレマーが著書に記しています、「大学を辞して、彼女は教師の研修で得られる収益と著書や教材等から得られるロイヤルティで、自分と家族を養うことを決意したのです。そうした状況でしたので、彼女は大学に在籍していた頃には商業的側面には詳しくなかったのですが、より利潤を追求するようになりました。」と。その頃に、モンテッソーリ教育の普及においては、利潤の追求も重視されることとなったのです。元々、モンテッソーリ教育というのは、精神病院や貧しい人が住む地区で生まれたものでした。商売っ気の無さと科学的分析手法が融合して生み出されたものでした。それが、利益追求型のものになり、ロイヤリティーで稼ぐ形に変容してしまったのです。一方、モンテッソーリ教育の知名度が上がるにつれてモンテッソーリ教育は、初期には長屋の空き家を借りて教育的実験を行っていましたが、上流階級に属する裕福な者の邸宅の居間などで行われるものに変容していったのです。モンテッソーリ教育は、専ら裕福な白人の子どもが受けるものになりつつあったわけですが、それは、良い教育方法であると認められたことが原因なのですが、同時にモンテッソーリが特許料やロイヤルティで稼げる仕組みを構築したことの帰結でもあるのです。もはやモンテッソーリの教育方法は、教えるものではなく、売るべきものに変わってしまったのです。

 モンテッソーリは、対価を得てモンテッソーリ教育を広めるようになったのですが、子どもをどう育てるかという理想像だけでなく、子どもが教育を受けるべき環境についても理想像がありました。モンテッソーリは、敬虔なカトリック教徒でしたが教権(宗教上の権力。特にカトリック教で教皇・教会が持つ権力)には批判的でした。そんな彼女は、モンテッソーリ教育が、創造主から授かった子ども自身の力を伸ばすのではなく、社会が好む型に子どもをはめ込むという見方をされることを嘆いていました。彼女は著書に記しています、「驚くほどの能力を発揮した子どもがいると、良い教育方法のおかげだと考える人が多いようです。はたしてそうでしょうか?公立学校の教育現場で欠けているのは、より自由な勉強の仕方と、1人1人の子どもにふさわしい課題を与えることです。そこでは子どもたちは、そもそも能力が備わっている者として扱われていないのです。」と。 モンテッソーリが言及したように、公立学校では、モンテッソーリ教育はほとんど取り入れられていません。というのは、その訓練を受けた教員もいないわけですし、モンテッソーリ教育の教材もありませんし、お金もかかるので導入するハードルが高いからです。しかし、ハードルを高くした張本人は、モンテッソーリ自身なのです。彼女は公立学校を軽蔑していたわけですが、教育方法を軽蔑していたのであって、そこに通う生徒を軽蔑していたわけではありません。繰り返しになりますが、モンテッソーリが公立学校を軽蔑していた理由は、構造的なもので儲からないということにあったのです。

 モンテッソーリ教育が費用のかかるものとなってしまったので、慈善事業で資金を投じる者も出てきています。2018年、モンテッソー教育を受けた者の中で世界で最も裕福な人物であるジェフ・ベゾスは、自身が立ち上げた慈善ファンドのべゾス・デイ・ワン・ファンド(Day One Fund)に20億ドルを投じ、その一部を「質の高いモンテッソーリ教育を実践する幼稚園等のネットワーク を構築するプロジェクト」に使うと発表しました。そのプロジェクトによって、2020年以降、ワシントンに5つの幼稚園が設置されました。今年はフロリダとテキサスにも設置される予定です。2,000億ドルの資産を持つベゾスは、資金繰りに苦しむ公立幼稚園に単に資金を提供するのではなく、その競合となる幼稚園を作ることに資金を投じることを選んだのです。そのため、何人かの幼児教育の専門家は、なぜべゾスがそのような方法を選んだかを考えるべきだと主張しました。イェール大学のミラ・デブスや、ワシントンのヘッドスタートプログラム(アメリカで 1960 年代半ば頃から行われており、支援が必要な家庭の子どもを対象に就学援助を行うプログラム)の事務局長であるジョエル・ライアンなどです。その答えは、デイ・ワン・ファンドのウェブサイトを見ると載っています。そこには「このファンドが奉仕するべきであると定めた対象は明白です。全国のサービスの行き届いていない地域の子どもたちです。」との記載があります。モンテッソーリ教育は、カトリック教会と結びつきが強いようなイメージがあります。しかし、金儲け主義に毒されていて、とかくお金がかかるものになってしまったのです。

 しかし、資本主義社会においては、お金儲けの事業に宗教的な使命を帯びさせて見栄えを良くするということはしばしば行われることです。特に目新しいことでもありません。ベゾスは、モンテッソーリ教育を実践する教師をアマゾンの倉庫で働く労働者と同じような存在だとみなしていました。べゾスにとっては、教師もアマゾンの倉庫の労働者も必要不可欠な存在ではありますが、目に見えない存在でしかないのです。彼らは縁の下の力持ちですが、彼らの奮闘が評価されることはありません。彼らは、厳しく管理され、罰せられることはあっても評価されることはないのです。ベゾスが、子どもに焦点を当てた教育が重要であるということを世間に広めようとしているわけですが、それはモンテッソーリが最も重視していたことでもあります。モンテッソーリは、誰もそんなことを認識していなかった時代にそのことに気づいていたのです。彼女の著書には、「私たち教師にできるのは、子どもが自ら取り組もうとするのを手助けすることだけなのです。主人の指示を待つ執事のように、そばにいるだけでよいのです。」という記述があります。

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