サスペンスとは何ぞや? キャスリン・シュルツによるサスペンスの考察

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 多くの楽しいものと同様であるが、サスペンスにも悪い評判がある。サスペンスを批判する者たちは、サスペンスは大衆を楽しませるために芸人や売国奴が使う安っぽいトリックだと長い間みなしてきた。19 世紀に推理小説や探偵小説など、あからさまにサスペンス色の強い本が登場し始めると、高尚な批評家たちは、それらを「神経に訴えかける」ものであるとして非難した。つまり、倫理的・美的な充足感を提供するのではなく、好奇心や興奮を刺激することで読者を獲得するものだと論じたのである。「下品( tawdry )」「醜悪( hideous )」「卑劣( ignoblee )」。マシュー・アーノルド( Matthew Arnold:19 世紀のイギリスン詩人、批評家 )は、エアポート・ノベル(空港旅客向けの複雑な事件や冒険を主題とし目まぐるしいプロットを有する小説)の先駆けであるいわゆる鉄道小説をこう非難した。

 こうした非難は論理的な欠陥に基づいたものである。たしかに下品な文学作品はサスペンスに満ち溢れているが、実際には、他のあらゆる種類の文学作品もサスペンスに満ち溢れている。実際、電話帳や取扱説明書以外で、読者を魅了するためにサスペンスを盛り込んでいない作品を見つけるのはほとんど不可能である。相当な努力をしなければ、例外を見つけ出すことは難しい。 あの型破りな魅力の大御所、ガートルード・スタイン( Gertrude Stein )は、サスペンスで読者を誘惑することはめったになかった。彼の「 Goodnight Moon(邦題:おやすみなさいおつきさま)」や「 Pat the Bunny(未邦訳)」のような幼児向けの作品は、まったくサスペンスを盛り込まずに読者を魅了している。しかし、他の職業作家はほとんど全員がサスペンスを盛り込んでいると言ってよい。「 A Time to Kill(邦題:評決のとき)」、「 Rear Window(邦題:裏窓)」、「 Tinker, Tailor, Soldier, Spy(邦題:裏切りのサーカス)」、「To the Lighthouse(邦題:灯台へ)」、「 Beloved(邦題:ビラブド)、「 The Magic Mountain(邦題:魔の山)」やディケンズ( Dickens )やシェイクスピア( Shakespeare )のすべての作品、ヨブ記( Book of Job )は、いずれもが、少なくとも部分的にはサスペンスがエンジンとなって物語を推進させている。そのエンジンが散文のスタイルから登場人物の展開まで、他の文学的要求を台無しにしていると憤慨している低レベルな批評家が多いことは嘆かわしいことである。彼らはサスペンス自体に責任がないことを忘れている。それどころか、サスペンスこそが文学の原点であり、本質なのである。E・M・フォースター( E. M. Forster )が「 Aspects of the Novel(邦題:小説の諸相)」の中で述べているように、あらゆる小説作品は、どんなに高尚なものであっても、ストーリーを中心に構築されなければならない。「ストーリーがサスペンスを含むメリットはただ 1 つである。読者に次に何が起こるのかを知りたいと思わせることができる」。

 何世代にもわたって多くの小説家志望者たちが言っているのだが、それは言うほど簡単ではない。サスペンスの仕組みは複雑で、その道徳的・文学的地位と同様にしばしば誤解されている。多くの者が、サスペンスは情報を隠すことによって生まれると思っている。それは事実であるが、しかし、全く情報を提供しなければサスペンスを生み出すことはできない。アルフレッド・ヒッチコック( Alfred Hitchcock )の有名な例で説明したい。映画の中で爆弾が爆発するシーンがある。何の前触れもなく爆発した場合、観客は驚いて不安になるだろうが、まったくサスペンスは感じないだろう。観客にサスペンスを感じさせるためには、爆弾がそこにあることを事前に認識させる必要がある。例えば、爆弾が車に仕掛けられる場面を見ていたなら、その後のシーンはずっと緊張感で満たされる。主人公がトランクから傘を取り出すために戻ってきたり、警官が反則切符を切ろうとして近づいてきたり、小学生のグループがその車の前の横断歩道を渡っている場面などである。つまり、何が起こるかわからないからサスペンスが生まれるのではないのである。むしろ、何が起こるかわかっているからサスペンスが生まれるのである。

 これらのことが示唆するように、サスペンスは基本的に待つことである。このことはサスペンスに関するもう 1 つの直感に反する事実である。猛烈なスピードで進行するどころか、サスペンスは人為的に時間をスローダウンさせるものである。非常にサスペンスに満ちた小説は、ページをめくる読者の手を止まらなくさせるかもしれない。が、それは読者の手の動きを速くするだけで、その小説のプロットの進行が速いわけではない。いったん読者の好奇心が刺激されると、ストーリーラインは読者を満足させるものから離れ、結末に向かって急ぐのではなく、曲がりくねって蛇行する。これは職業作家からすると課題であり腕の見せ所でもある。なぜなら、駅やバス停や空港で出発を待つ時や電話を保留中にされて待たされる時と同様に、多くの状況で、待つということは人類が最も好まない行為の 1 つだからである。サスペンスで成功する秘訣は、読者を釘付けにして興味を持続させることである。そういう意味で、文学作品でも映画でも、最も重要なのは爆弾が爆発するタイミングを示すタイマーである。1 から 10 に向かって単純にことが進行するのは退屈である。しかし、10 から 1 にカウントダウンしていくと、手に汗握る。次に「ドカン」とくると想像するからである。重大な事象が間もなく起こると観客(読者)が知っている限り、進行が遅く遅々として時間が進まない状況も退屈ではなくなる。それどころか、スリリングなものになる。

次の一節で説明したい。

彼はいかだを拾い上げ、それを体の前に抱えて海原に向けて歩いた。水深が腰くらいになった時、彼は身体をいかだに預け前に倒れた。うねりがいかだをとらえ、少年を乗せたままいかだが持ち上げられた。少年はいかだが水平になるようにバランスをとった。両腕でリズミカルにパドルした。両足の膝下あたりより先はいかだからはみ出していた。彼は数メートル進み、それから向きを変えて浜辺のあちこちを漕ぎ進んだ。

 なかなか詳細な描写である。この詳細さは、イケアの家具を組み立てる時のコマ割りイラストを彷彿とさせるものである。この散文は十分に心地よく、波打ち際を漂う少年の揺れを感じさせるものである。しかし、ピーター・ベンチリー( Peter Benchley )のジョーズ( Jaws )の 57 ページという文脈で読まない限り、特にサスペンスを感じることはない。

 これはサスペンス構築戦略の最も極端なバージョンであるが、単に時間を遅くするだけでなく、アクションが最高潮に達した時に読者をその場から引き離すことによって、事実上時間を止めている。これはクリフハンガーとして知られる作劇手法である(劇中で盛り上がる場面、例えば主人公の絶体絶命のシーンや新展開をみせる場面などを迎えた段階で結末を示さないまま物語を終了とすること)。この作劇手法の推定上の起源は推理小説等ではなく、あまり知られていないトマス・ハーディの小説 「A Pair of Blue Eyes (邦題:青い眼)」にある。ヘンリー・ナイト( Henry Knight )という男が恋人とコーンウォール( Cornwall )の崖沿いを散歩していると、彼の帽子が吹き飛ばされる場面がある。彼は帽子を追いかけ、いろいろなことが次から次へと起こり、まもなく彼は切り立った岩壁からぶら下がっている場面になる。彼の下には何も無い。ただ 600 フィート(183 メートル)下で海面が牙をむくように泡立っているだけである。

 「青い眼」は、T・S・エリオットがハーディについて述べた「彼の作風は、時に、善良という段階を経ることなく、崇高な境地に達することがある」という言葉を思い起こさせるもので、私は良心の呵責を感じずに推薦することはできない。それでも、この崖の上のシーンは自己完結した小さな傑作と言わざるを得ない。記述が巧妙で、心奪われるものがある。ちょっとやり過ぎに感じるかもしれない。主人公の命が危ぶまれる中、ハーディは 5 億年の歴史を悠々と辿ってゆく。主人公のヘンリー・ナイトは目の前の岩肌に化石化した古代の三葉虫を見て、原始のイグアノドンから最古の人類にまで繋がる無数の生き物の存在に心を向けていることに気づく。死に直面して、彼の頭の中によぎるのは、自分の人生だけでなく、地球上のあらゆる生命のことである。彼は何百万年にもわたって無数の生物が生まれ死したことを考え、最愛の人について考え、彼の境遇では感じずにはいられない自然の無慈悲さについて考え、自分の短すぎる人生の意味について考える。ナイトは、長い間、容赦なく大西洋の上に宙吊りにされる。読者もそれにつき合うことになるのだが、12 ページ以上も宙吊りにされたままである。仕方がない。ここがこの小説の佳境なのだから。ナイトがこの試練を生き延びたか否かを明かすことは私にはできない。いずれにせよ、こうしてクリフハンガーという手法が生まれたのである。