サスペンスとは何ぞや? キャスリン・シュルツによるサスペンスの考察

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 出産に話を戻すが、「 a pregnant pause (いやな沈黙、緊張感の漂う間)」というフレーズについて考えてみたい。この慣用句は、妊娠するとこれから何か重要なことがこれから起こるかもしれないという予感でいっぱいになることから、pregnant(妊娠)という語が沈黙を修飾するために使われるようになったと推測する方もいるかもしれない。しかし、そうではない。逆である。パートナーの出産予定日前の数カ月に私は偶然このフレーズの由来や語源を知ったのだが、「 pregnant 」という語は、子供を宿していることを表すために使われる前は、「 laden with significance(意義を宿している) 」ことを意味していたのである。

 妊娠とは事実上、非常に長くクリフハンガーが続く状態であり、「予期している( expecting )」という表現を使うのが適切な状態が延々と続くことである。これとは対照的に、「 a pregnant pause (いやな沈黙、緊張感の漂う間)」は非常に短いクリフハンガーである。それは、聞き手の期待を膨らまさせる効果があるフェルマータ(拍子の動きを停止して、音符や休止の長さを任意に延ばすこと)である。単純な「間」ほど洗練されていないテクニックでそれが実現できるということは、サスペンスがプロットだけから生まれるのではないことを示唆するものである。むしろ、それはフラクタル(図形の全体をいくつかの部分に分解していった時に全体と同じ形が再現されていく構造)であると言える。7 シーズンのテレビシリーズでは、あらゆる章、節、シーン、沈黙に至るまで、あらゆるレベルでサスペンスを醸成することができる。

 小説では沈黙という選択肢が採用できないわけで、サスペンスの最小単位は文である。たった一行の文がサスペンスを生み出すと考える者はほとんどいないかもしれないが、文の本質的な役割の 1 つは、次の文章を読む気にさせることである(もしそれができなければ、説明、啓蒙、美的快楽、道徳的変化など、文を書くことの他の目的はすべて無意味になってしまう)。そのためには、文は時に物語のように機能する必要がある。つまり、読者に次を知りたいと思わせる必要がある。

 成功例を挙げたい。作家カール・カーマー( Carl Carmer )の全集に収録されている、南部の黒人の民話伝承の冒頭の一節である。「膝丈の男が沼の近くに住んでいた( The knee-high man lived by the swamp .)」 この文章には、アクションもなければ(膝丈の男が巨人から逃げているわけでもない)、これといった緊張感もない(膝丈の男の心臓がバクバクしているわけでもない)。登場人物の 1 人がぽつんと置かれているだけの設定である。しかし、サスペンスに満ちている。誰もがこの文を読めば、疑問を感じるはずである。この膝丈の男はどうなっているのだ?膝丈の男と沼が本質的に興味を引くものだと思うかもしれないが、この文のサスペンスのほとんどは、文の構造から生まれているのである。「 The old man lived by the railroad tracks(老人が線路脇に住んでいた)」、「 Mrs. Octavia Antoinette Varnish lived on the sixteenth floor of an apartment building on Park Avenue(オクタヴィア・アントワネット・ヴァーニッシュ夫人はパーク・アベニューにあるマンションの 16 階に住んでいた)」、「 Benjamin Mooney lived in an old house on a dirt road just beyond the town line(ベンジャミン・ムーニーは町の境界線を越えた未舗装道路に建つ古い家に住んでいた)」、これらの文はいずれもサスペンスを生み出している。物語の登場人物と舞台が決まれば、読者の心は自然とその筋書きを気にし始めるのである。このことは、職業作家にとって福音であり、ありがたいことである。

 別の手段でサスペンスを作り出している文も存在している。「 At first, he counted the days by tying knots in a rope(最初、彼はロープに結び目を作って日数を数えた)」という文がある。これは、第二次世界大戦中にイギリス海軍戦艦の沈没を生きのび、ブラジル沖で救助されるまで木製のいかだの上で 133 日間も 1 人で耐えたプーン・リム( Poon Lim )を説明するウィキペディアのページから抜粋したものである。リムの苦難の体験談の途中に出てくるこの文は、事実を淡々と述べているに過ぎない。しかし、これを物語の最初の文にすれば、素晴らしいリード( lede )になる。このような書き出し文を見たら、読み進まない者はいないだろう。たった 12 語で、読者はすでに物語の奥深くに引き込まれてしまう。何が起こったのか、次に何が起こるのかを知りたくなる。興味津々となる。

 昔から多くの脚本家が、この冒頭に重大な出来事を配置するという技法を理解し、駆使してきた。映画「 Sunset Boulevard(サンセット大通り)」が殺害された男がプールに浮かぶシーンで始まるのも、無数の Netflix の番組が最も盛り上がってピークとなる瞬間から始まるのも同じ理由である。プロットが冒頭の出来事のシーンに追い付き、その詳細が明らかになるまで、観る者の関心をつなぎとめることができる。映画の場合は 2 時間つなぎとめなければならないし、NetFlix の番組ならば場合によっては 20 話先までつなぎとめなければならない。映画等の場合、スクリーン上では、プールの中に死体が浮いているように、通常このようなシーンはドラマチックなものである。小説等のページ上では、物語を中途から始めるという手法は、それ自体以上のものを必要としない。一行でサスペンスを生み出すために、特別に面白い内容は必要ない。「 The doubts came later(後から疑念がいくつも湧いてきた)」という一文は、いずれも何の変哲もない冠詞と名詞と動詞と副詞を 1 つずつ並べただけである。それでも、読者に先を読みたいと思わせる力がある。読者は、何か不審な点があるのだろうかと悩み、本当の死因等々を突き止めたいと考え始める。美しい散文は必要ない。スティーブン・キング( Stephen King )の「 Cell(邦題:セル)」の冒頭を飾る文は次のとおりである。「 後にパルス( The Pulse )として知られるようになった出来事は、東部標準時の 10 月 1 日午後 3 時 3 分に始まった」。鉄道駅の案内放送のようで素っ気無いものだが、非常に効果的である。

 これらの文には曖昧さが残されている。これから起こることの詳細は何も分からない。読者は、どんな疑惑があるのかとか、何が重大なのかを考えさせられる。曖昧さこそがサスペンスの前提条件のように思える。しかし、哲学者アーロン・スマッツ( Aaron smuts )が生前に指摘したように、これから起こる出来事について全てを知らされていても、サスペンスを感じながら読み進むことは可能である。スマッツが指摘するのは、映画「 Psycho(サイコ)」でマリオン・クレイン( Marion Crane )がノーマン・ベイツ( Norman Bates )のモーテルにチェックインする際に会話を交わすシーンである。最初にこのシーンを観た者は、不気味なオフィスと不気味な経営者に気づいて、マリオンの安否が少し心配になるだろう。全編観終わった後で、彼女が数分後には殺されてしまうことを十分に認識した上でこのシーンを再度観てみると、耐え難いほどサスペンスを感じることになる。

 何が起こるか知っているシーンが登場するのを待っている間に強烈にサスペンスを感じることができるのは不思議なことに思えるかもしれない。しかし、もしそうでなければ、映画「 Titanic(邦題:タイタニック)」や「 Flight 93(邦題:エアポート ユナイテッド 93 )」のような結末を良く知っている出来事を扱った映画を見たり、「 The Perfect Storm(邦題:パーフェクト・ストーム)」のように冒頭で結末がわかってしまう小説を読んだり、「 Harry Potter and the Chamber of Secrets(ハリー・ポッターと秘密の部屋)」を15回目も読み返したりして、先の展開がすべてわかっている時には、サスペンスをほとんど感じられないだろうし、興味もあまり持てないだろう。実際には、これらの場合にもサスペンスを感じられるわけで、そのことは曖昧さが残されておらず、結末を知り尽くしていてもサスペンスを感じられることを示唆している。つまり、十分に熟練したストーリーテラーの手にかかれば、読者や鑑賞者は創作作品の中で未来を体験している間中、未来について既に知っている内容を忘れることができるのである。

 興味深いことだが、作家が十分な技術を持っているかどうかという疑問自体がサスペンスを生み出すこともある。ある種の複雑な物語では、登場人物がどうなるかが気になるだけでなく(たとえば、ドラマ「 Lost 」を観れば、デズモンドがペニーと再会できるのか気になる)、作者が物語を卒なく完結できるか否かということも気になる(「 Lost 」であれば、制作陣が上手く話をまとめ上げられるか心配になる)。エレノア・キャットン( Eleanor Catton )の「 The Luminaries(邦題:ルミナリーズ)」やフランシス・スパフォード( Francis Spuffords )の「 Golden Hill(未邦訳)」のような小説から、ノーラン兄弟( Nolan brothers )がこれまでに製作したほとんどすべての映画に至るまで、多くの野心的な作品の根底にはこの種のメタ・サスペンスがくすぶっている。プロットが複雑に入り組んでいればいるほど、あるいは広大であればあるほど、私たちはそのプロットがうまく収束するか否か心配になる。すべてのピースが上手くはまるのか、あるいはバラバラになってしまうのか?この物語をコントロールしているのは誰なのか?そうした懸念が読者の頭の片隅にあるわけだが、物語に一貫性が無い上にプロットも稚拙である場合には、読者は断続的にしか光明を見い出せなくなるし、満足感を得られないと感じるようになる。多くの読者や鑑賞者の作品に対する興味は、物語が上手く完結しない可能性を感じとると、大幅に低くなることが多い。