春の園芸シーズン到来!種子カタログをめくって、野菜や花に関する蘊蓄(うんちく)を知るのは意外と楽しい!

3.種子カタログの変遷

 印刷された種子のカタログは18世紀中頃まで遡りますが、当時はまだ輸入品しか扱われていませんでした。1786年1月、花屋兼種子業者のピーター・ベレット(Peter Bellet)社は、ボルチモア周辺で発行されていた雑誌に広告を出しました。そこには、「アメリカではお目にかかれない花の球根や種子を非常に豊富に取り揃えています」と記されていました。また、たくさんの花の名前と色を一覧表にして掲載していました。そのずっと前には、ほとんどの人は種子を収穫して保存していました。実は、種子を売るカタログが発行されるようになった後も、それは変わりませんでした。多くの人が、種子を瓶や壷に入れたり、紙切れに包んだり、布袋に入れたりして、納屋やサイロの中に保存していました。自分で育てているものの種子を買う必要はありませんでした。収穫して翌年用の種をとっておいたり、近所の人と交換したりすれば良かったのです。カタログに掲載されている中から種子を買うことは紳士の趣味でした。1788年、ベンジャミン・ラッシュ(Benjamin Rush)はジョージ・ワシントン(George Washington)にロンドンで売られていた小冊子を送りました。タイトルは、「マンゲルワーゼル(Mangel Wurzel)もしくは”希少性の根”と呼ばれるものの文化と使用についての研究(An Account of the Culture and Use of the Mangel Wurzel, or Root of Scarcity)」でした。ラッシュはワシントンに、「植物学者たちが、その種がビートの亜種であることで合意した」ことを伝えたかったのです。それで少量の種子も同封して送っていました。その種子をワシントンは自宅の馬屋付近に植えました。

 種子を買うのは非常に便利です。特に新しい品種を試したい時には、そうです。ニューヨーク州北部に住むシェーカー教徒(Shakers)は、1960年代に種子を売買するビジネスを始め、その後まもなく、少量の種子を説明文を書いた紙を封筒にした紙で包んだ”種子パケット(seed packet)”を発明しました。シェーカー教徒は、その種子パケットを独創的なデザインの箱に入れて一軒一軒回って売り捌きました。その後、種子の見本帳を持ち歩いて種子を売るセールスマンが登場しました。これもまた戸別訪問形式でした。そして、クロモリソグラフ印刷(chromolithography :多色刷りができる)の登場により、種子を販売する企業がメールオーダー用のカタログを印刷するようになったのです。このカタログは、農家の人たちに配られました。彼らは、種子のことは説明しなくても良く知っていました。しかし、都市部の園芸愛好家と呼ばれる人たちもカタログを送る対象にしたので、植え方等の説明文が付けられるようになったのです。1853年に配られたあるカタログを見ると、「アスパラガスの耕土は砂質が良い」とのアドバイスがあります。また、当時はカタログを見て何かを注文すること自体が目新しいことであったため、ほとんどのカタログには、注文の仕方の詳細が記されていました。注文の失敗例も記されていました。ニューヨーク州バッファローのロングブラザーズ(Long Brothers)社の「年次花卉小売カタログ(第8刊)」には、注文の失敗に関するコラムが掲載されていました。コラムの題は、「注文の不備がもたらす困惑」でした。そこには、1876年にベルリンに住む女性から届いた30セントが同封されたカタログの郵送を希望する手紙が掲載されていました。「これは、どこかにあるベルリンという町から届いた手紙です。」との説明文がありました。憤慨したロングブラザーズ社の説明文には、アメリカにはベルリンという名の町が18もあることが記されていました。19世紀末には、コートニー・フリラブ(Courtney Fullilove)が2017年に記した著書”The Profit of the Earth: The Global Seeds of American Agriculture(未邦訳:地球の利益 アメリカ農業の世界的な種子)”の中で報告しているように、アメリカには世界中から種子が集まっており、種子はますます遠くからやってくるようになっていたそうです。1894年のクロスマン種子(Crosman Seed Company)社のカタログには、「私たちは、目新しいだけでなく、本当に価値のあるものを求めて、地球上を端から端まで探しました。」と自慢げに記してあります。

 種子を保存している人もいますし、古い種子のカタログを保存している人もいます。多くの農学者が残っている種子のカタログを調べて研究しています。研究することで、アメリカの種子の変遷を知ることができます。20世紀には、パテントを取得した種子や肥料や農薬によって作物の収穫量が増え、家族経営の農場がほぼ壊滅し、農業の多様性が劇的に減少したことが分かっています。1900年には、アメリカでは5人に2人が農業に従事し、都市部に住んでいるのは5人に2人のみでした。ほとんどの人が作物の栽培方法を知っていたのです。1920年代には、2種類のコーンを皮切りに、ハイブリッド種(交配種)が登場しました。ちなみに、現在、アメリカで農業に従事する者の割合は2%以下です。最も減少しているのは黒人の農業従事者で、100年前には100万人近くいたのですが、今では5万人以下になっています。ハイブリッド種のコーンは成長が早く、乾燥に強く根腐れを起こすこともありません。しかし、栽培した後に種子をとって保存して翌年に植えることはできません。上手く育たないからです。ですので、パテントを持つ種子会社から毎年、種子を買い付けなければなりません。ハイブリッド種のコーンは、1935年にはアイオワ州で栽培されるコーンの10%以下でしたが、1939年には90%、1946年には100%になりました。19世紀にアメリカで栽培された7,000種以上のリンゴの内、86%はもはや存在していません。それは、ジャニス・レイ(Janisse Ray)が2012年の著書に記していることです。著書名は、”The Seed Underground: A Growing Revolution to Save Food”(未邦訳:種子の秘密 革命的な食料増産)です。また、その著書によると、同様にキャベツの95%、飼料用コーンの96%、エンドウマメの94%、トマトの81%も、もはや存在していません。

 私の記憶では、20世紀半ばといえば、まさしく”ミラクル・グロー”(Miracle-Gro)社の時代だったと言って差し障りないと思います。私の母親はミラクル・グロー社の園芸用品を買うのが大好きでした。同社は1950年頃に芝生や園芸用品の販売を始めました。同社の種子カタログには、原子力の研究が盛んだった時代の最先端の科学者たちが開発した種子が記載されてました。多くの企業の種子のカタログが、本誌(The New Yorker)でかつて編集者をしていたキャサリン・S・ホワイト(Katharine S. White)を魅了し、同時に、苛立たせました。彼女は1958年に、”A Romp in the Catalogues(「カタログの中の暴走」くらいの意?)”という記事を書いています。その年は、彼女の夫E・B・ホワイト(E. B. White)がレイチェル・カーソン( Rachel Carson)を促して、”Silent Spring”(邦題:沈黙の春)を書くために構想を練り始めさせた年です。彼女の記事の書き出しには、「園芸家にとって、この季節はいろいろと計画し、新たな希望に満ち溢れた季節です。何十万人もが心待ちにしていたカタログが到着し、その魅惑的な内容に目を通してうっとりし、種子や植物の注文リストを作り、夢を膨らませています。」と記されています。彼女は種子のカタログが大好きでした。しかし、苛立ちを覚えることもあったようです。毎年のように新種の種子がカタログに載るのですが、それらのほとんどは、より大きく育つとか、より育てやすいとか、より美しくなるなどのメリットを有しています。しかし、中には新種であることだけが売りの種子も有ったのです。旧来の種子と違っていることだけが売りと思われるものもあったのです。彼女は、何でこんなものを売り出す必要があるのかと思って、苛立ったのです。彼女は、「バーピー(Burpee)社の新しいハイブリッド種の巨大ヒャクニチソウ(zinnias)は、どう見ても毛むくじゃらの巨大なキク(chrysanthemums)にしか見えない」と記していました。「私はキクが好きなのですが、なぜヒャクニチソウがキクに似ていなければならないのだろうか?」

 アメリカでは1970年代に「大地へ帰れ運動」(back-to-the-land movement:都会生活と消費社会を捨て、田舎で自律的な生活をしようとする運動)が起こりました。当時、多くの人々が種子を保存したり、いろんな種子を集めたりし始めました。また、祖父母が生きていた時代の種子を探して、物置や屋根裏部屋に保管していた瓶や木箱や包みをこじ開けたりしていました。在来品種の種子を重宝がって探し求める人もいました。当時バージニア大学の学生だったウィリアム・ウォイズ・ウィーバー(William Woys Weaver)は、祖母の冷凍庫の奥の方から祖父の種子のコレクションを発見しました。その後、ウィーバーは”Heirloom Vegetable Gardening”(未邦訳:「在来種子の菜園」の意)という本を執筆し、現在はホール・シード(Whole Seed)社のスタッフとして働いていて、歴史家としてカタログの作成に参画しています。同社のカタログでは、彼の歴史的な考察を目にすることができます。豆知識がいたるところに記されています。例えば、コノーバー・コロッサル(Conover’s Colossal)というアスパラガスの種子は、「ニューヨーク市の農産物商人S・B・コノーバー(S. B. Conover)が1860年代に、巨大な穂と極めて高収量という優れた品質を着目して開発した。」と説明されています。また、ジェイド(Jade:ひすいの意がある)というキュウリ(Chinese cucumber)の種子は、「西暦216年の漢朝時代(Han dynasty)に中国西部から欧州にもたらされたと考えられている。」と説明されています。