Ukraine Dispatch ロシアへの制裁措置って効果あるの?残念ながら、制裁の成果はほぼ無い!

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Why Sanctions Too Often Fail
なぜ、制裁は失敗することが多いのか?

The West has mobilized vast economic weaponry against Russia. But sanctions do not always produce meaningful or timely change.
西側諸国はロシアに対して広範な経済制裁措置を発動しました。しかし、制裁によって成果が出ることは稀です。出たとしても、時間がかかります。

By Robin Wright March 7, 2022

 ジョー・バイデン大統領は、軍事力は行使したくないようです。それで、ロシアに対して、驚くべきスピードで一連の制裁措置を発動しました。木曜日(3/3)にはルーブルが下落しました。1ルーブルが1セント以下となったことを受けて、バイデンは制裁措置が機能していると主張しました。彼は、閣議が始まる前に言いました、「プーチンとその取り巻き連中に対する厳しい経済制裁が、既に大きな効果を上げています。とりわけ、様々なテクノロジーへのアクセスの遮断、国際金融システムへのアクセスの遮断は、効果が大きかったようです。」と。しかし、過去の歴史を振り返ると楽観視はできません。戦争を終わらせるためであれ、大量虐殺を止めるためであれ、爆撃を制限するためであれ、抑圧を弱めるためであれ、制裁してもあまり効果がなかったという事例はたくさんあります。歴史上、制裁が初めて行われたのは、古代ギリシャの時代まで遡ります。ペリクレスが他の都市国家に制裁を加えたことが最初とされています。制裁措置が上手くいかない事例は、枚挙にいとまがありません。1806年にナポレオンは、欧州諸国に対英貿易を禁止するという制裁措置をとりました。しかし、スペイン王位に就いた実弟にさえ、それを強制することはできませんでした。制裁が外交政策の手段として使われるようになったのは、20世紀以降のことです。第二次世界大戦以降、制裁措置はより頻繁に行われるようになりました。というのは、軍事力を用いた手段をとることが憚られるようになったからです。グローバリゼーションの進展に伴い、各国間の相互依存は深く広くなりました。それゆえ、制裁という手段が、侵略に対する低リスクな選択肢の1つとなっていて、しばしば採用されています。

 しかし、歴史を振り返ると、制裁が十分な効果を発揮する確率は、40%程度でしかないのです。北朝鮮、ベネズエラ、イラクに対しては何年にもわたって制裁が課されていますが、変化は現れませんでした。キューバは、1960年以降、何度も米国から禁輸措置を受けましたが、未だに共産主義体制を維持しています。シリアのバッシャール・アル=アサド大統領は、2011年に「アラブの春」が自国に波及して内戦が勃発した後、残忍な抑圧を行ったとしてさまざまな制裁に直面しました。何十万人もの死者が出ていますが、未だにアサドはダマスカスに居座り続けています。制裁はしばしば悲劇を生みます。南アフリカでは、制裁が効果を挙げるまでに30年もかかってしまいました。今回、米国がロシアに対して発動した制裁措置は、イランに課した措置と似ていますが、その効果は即効性のあるものではありません。残念ながら、多くの制裁は、即効性は無く、効果が出るには長い時間を要することが多いのです。制裁ではなく、武力行使という手段をとれば、効果は直ぐに現れます。銃撃や砲撃や爆撃を行えば、直ぐに効果が現れます。戦争や弾圧等に対して制裁措置をとると、効果が出るのに何十年もかかることがあります。外交問題評議会のベン・スタイルは、言いました、「制裁が効果を発揮することはほとんどありません。効果を発揮するとしても、非常に長い時間がかかる傾向があります。」と。

 制裁措置が効果を発揮しない理由の1つは、免除措置にあります。通常の制裁措置には、”carve-outs”(カーブアウト)と呼ばれる免除措置が設けられます。ライフラインに関する条項で免除措置が設けられることが多いようです。また、人道的な観点から、食料品、医療機器、教育資材等に対しても免除措置が講じられることが多いのです。また、制裁措置を課す国々は独自にルールを設定することが可能ですので、各国は自国の経済的利益を損なわないよう必要に応じて制裁措置のルールを修正したり、抜け道を設けたりすることができるのです。1966年に初めて国連は制裁措置を発動しました。それは、ローデシア(現ジンバブエ)に対してでした。政権交代させることを意図したものでした。そこでは、少数白人政権が、その支配を維持すべくイギリスからの独立を宣言した後、アパルトヘイト政策をとっていたからです。国連安保理は、ローデシアに対して経済封鎖策を決議しました。しかし、その対象は同国の輸出品の9割にとどまりました。米国も何年にもわたって、カーブアウト(免除措置)を取っていました。ジェットエンジンや自動車やステンレス鋼を製造する際の必須の原材料であるローデシア産クロム鉱の輸入を認める特別措置を取っていたのです(当時のローデシアは世界のクロム鉱の3大供給国の1つでした)。ローデシアの少数白人政権が崩壊して民主的な政府が確立するには、内戦と10年以上の年月を経なければなりませんでした。その過程で約2万人が死亡しました。

 ロシアには様々な制裁措置が課されています。しかし、やはりカーブアウト(免除措置)がいくつもあるようです。たしかに西側諸国は制裁を課しています。しかし、ロシアは、最大の収入源である原油や天然ガスを継続して販売することができるのです。昨年、ロシアは原油と天然ガスの輸出によって1,190億ドルの外貨を稼いでいました。昨年の原油価格は平均すると1バレル69ドルでした。今月は1バレル115ドルにまで高騰しています。仮に西側諸国が結束してロシアの原油や天然ガスを禁輸するという措置をとっても、効果は限定的でしょう。というのは、結果として西側諸国はエネルギー不足に直面し、世界的にエネルギー価格が高騰することになるでしょうが、ロシアは他に高値で買い取ってくれる買い手を容易に見つけられるからです。むしろ逆効果になりかねません(中国等ロシアとの貿易を遮断していない国がせっせと原油を買い込むでしょう)。

 かつて南アフリカ共和国は、悪名高きアパルトヘイト(人種隔離政策)を推し進めていました。スタイルが言うのは、南アフリカに対する制裁措置は数少ない成功事例の内の1つだそうです。1962年、国連総会は、全加盟国が南アフリカと外交、軍事、経済のすべての関係を断つという決議をしました。しかし、この時にも免除措置がいくつも設けられて、全世界規模の制裁措置の効果はいくぶん薄められていました。免除措置として、南アフリカが豊富に産出する石炭、ダイヤモンド、金などが「戦略物資」とされて制裁から除外されました。その結果、せっかくの制裁も南アフリカを支配していた白人層には何の痛みももたらさなかったのです。しばらくする内に、南アフリカの経済は、他国との交易が制限されても問題が無くなりました。南アフリカは原油の輸入を禁止されたのですが、石炭から石油を作る世界有数のシステムを開発することに成功しました。制裁が課される前、南アフリカは軍需品は輸入に頼っていたのですが、国内での生産量を増やすことに成功し、兵器の純輸出国に転じました。禁輸等の制裁措置が続けられているにもかかわらず、南アフリカは1982年に初めて核兵器の開発に成功し、1989年までに6つの核爆弾を製造しました。1990年になって、ようやく白人政府はネルソン・マンデラを釈放しました。最初の制裁が課されてから30年経って、ようやくアパルトヘイトは終焉を迎えました。その間、世界の政治情勢も大きく変化しました。

 制裁の効果が全く無かったこともあります。イラクへの制裁は最悪の失敗例の1つです。イラクの独裁者は、国民が飢えても、自国が孤立して経済が疲弊しても全く意に介しませんでした。ですので、制裁は何の効果もありませんでした。1990年にサダム・フセイン大統領はクウェートに無謀な侵攻を仕掛けました。今回のプーチンのウクライナへの侵略と同様ですが、世界中からひんしゅくを買いました。サダム・フセインがイラクを攻撃した4日後には、国連安保理はウェートからのイラクの即時撤退を要求し、貿易と石油の禁輸を含む制裁をイラクに課しました。しかし、サダム・フセインは撤退を拒否しました。侵攻から半年後、米軍主導の多国籍軍による攻撃を受け、イラク軍はクウェートからの敗走を余儀なくされました。しかし、それでもサダム・フセインは停戦合意を拒否しました。そのため、イラクには長期にわたる様々な制裁が課されることとなりました。それによる、イラクの損害は莫大なものとなりました。ユニセフによると、1997年にはイラクの子どもの3分の1が栄養失調だったようです。かつてイラクは潤沢な石油資源のおかげで中東諸国で最も高い生活水準を誇っていました。しかし、1999年時点では、赤十字の報告によれば、イラクの経済は疲弊しきっていたようです。残念ながら、イラクの経済が疲弊しようがサダム・フセインにとっては痛くも痒くも無いことでした。彼は、大量破壊兵器の監視を任務とする国連査察団の受け入れを拒否しました。2003年、米国は2度目のイラク侵攻を開始しました。そして、ついにサダム・フセインは捕らえられて処刑されました。ほとんどの独裁者は、自国が制裁を受けても意に介さないことが多いようです。というのは、国民が苦しもうが、自国経済が疲弊しても気にしないからです。実際、これまでのところ、現在のプーチンも制裁を課されているわけですが、全く意に介していないようです。

 北朝鮮への経済制裁や禁輸措置は、1950年代の朝鮮戦争後に初めて実施されました。しかし、あまり成果をあげていないようです。実際、3世代にわたる金王朝は、何事もなかったかのように脈々と統治を続けています。制裁によって、より好戦的になり、より武装を強化しつつ、より頑強になりました。2000年にはメデリン・ルブライト国務長官が平壌を訪問し、野心的な弾道ミサイル開発を制限することを条件に、経済制裁の緩和と人道支援をするという提案をしました。当時の北朝鮮は、4年にわたる歴史的な大飢饉が終わったところでした。飢えにより数百万人が死亡していました。それでも、北朝鮮はその提案を受け入れませんでした。その後、4人の米国大統領が北朝鮮に対してそれまで以上に厳しい制裁を課してきました。しかし、世界で最も孤立した政権が、現在、数十個の核兵器を保有しています。また、それを搭載してアジアや太平洋のかなたに発射することができる長距離弾道ミサイルも保有しています。

 バイデン政権は、ロシアへの新たな制裁は “イランモデル “に基づいていると述べました。(イランモデル:2012年、イランが核開発計画に着手したのを受けて、米欧主要国が制裁措置として、同国をSWIFTシステムから除外した。その結果、イランは、原油収入のおよそ半分、対外貿易収入全体の3分の1を失ったといわれる。)しかし、40年にわたってイランに対して禁輸措置と制裁措置を続けてきたわけですが、未だイランの体制を転覆させることには成功していません。1979年には、テヘランで52人の米国人外交官が人質に取られました。その際に米国は初めて制裁を課したのですが、人質が解放されるまでには14カ月を要しました。1980年代半ばには、イランをテロ支援国家に指定して、さらなる制裁を課しました。また、1990年代と2005年には、イランが核兵器を製造している疑惑が浮上し、制裁が強化されました。2013年には、西側との核交渉の元責任者だったロウハニ師が、イスラム教による政治体制や最高指導者ハメネイ師に忠実な保守強硬派に圧勝して新大統領となりました。それで、イランはようやく交渉に応じることとなりました。北朝鮮やイランへの経済制裁を指揮してきた財務次官のスチュアート・リービーは私に言いました、「イランを交渉のテーブルに着かせるためだけに膨大な労力を割かなければなりませんでした。私はテヘランに数え切れないほど行きました。それだけで、航空会社のマイルが100万マイルも貯まりましたよ。」と。

 しかし、制裁措置は国内の政治情勢によってころっと変わることもあります。2015年にイラン核合意が締結されましたが、3年後の2018年にはドナルド・トランプ大統領はそれを放棄しました。そして、イランに1000以上の新たな制裁を課しました。トランプの目的は、イランに広範な交渉に応じさせることでした。しかし、その目論見は見事に失敗しました。報復措置として、イランは核合意の制限を破って核開発に着手しました。

 制裁によって、制裁を受けた国が行動を悔い改めたり、その政権が転覆したりすることは、ほとんどありません。ロシアは、ウクライナへの侵攻によって様々な制裁を課され、間違いなく厳しい経済的打撃を受けるでしょう。スタイルが私に言ったのですが、プーチンは、西側諸国がこれほど強力な経済制裁を課すとは予測していなかったのかもしれません。おそらく、プーチンは自分や側近たちの海外資産が凍結されるなどとは予測もしていなかったでしょう。G7は、金曜日(3/4)に共同声明を出しました。今後も厳しい制裁を課していくと警告しています。世界で最も裕福な民主国家で構成され、最も影響力の強い国が集っているG7が、ロシアに侵略をやめるよう要求しています。しかし、残念ながら、過去の歴史が示すように、経済制裁には限界があるのです。制裁だけで、モスクワの冷酷で凶悪な人物の行動を止めることはできないでしょう。

以上