10.子供が増えなくたって問題無いのでは?
認知科学の専門家 L・A・ポール( L. A. Paul )が主張しているのだが、哲学的な見解で子供を持つという決断は根本的に非合理的だというものがある。厳密な費用対効果分析によって子供の期待価値を推定することはできるかもしれないが、子供を持つことは人生を変えるような経験であり、その計算は無意味である。子供を持てば、それまでと違う視点から決断を下すことになる。子供を持つ親がこのような主張をすると、どうしても上から目線に聞こえてしまう。それが真実かどうかは確信が持てないが、私自身もそうした発言をしてしまったことが何度かあるような気がする。いつも仕事と生活の両立は難しいろいう理由をつけて、この記事を書くために自分の幼い息子たちから離れなければならなかった。8 歳の息子に、なぜ子供を持つべきなのかと尋ねたところ、彼は弟を殴るのを少しの間止めて、「僕たちは最高の仲間だから」と答えた。
少子化を止めるためには飛躍的な変化が必要かもしれないという議論がある。しかし、私たち自身と私たちが住む社会が、そのような変化に対して開かれた姿勢を保ち続ける場合にのみその議論は意味を持つ。韓国のある大学院生は私にこう言った。「標準的な人生の歩みは退屈である。驚きは美徳ではない。私たちは死ぬまでのあらゆることを想像することができる」。1997 年のアジア金融危機以前には、経済学者のキム・ソンウン( Kim Seongeun )が私に語ったのだが、大学入試で高得点を取った学生は、ソウル大学に進学して物理学を学ぶことが多かったという。景気低迷で大企業が研究者を解雇するようになるにつれ、多くの親が医学の方が安全な道だと考えるようになったと彼は指摘する。高得点者が医学部に進むようになるのに時間はかからなかった。キムもリスクヘッジのためそのトレンドに乗っかったという。「どうして自分の息子を小さなボートに乗せられるだろうか?」と彼は言った。私は何気なく、親になるということは、すべてのボートが小さすぎると感じることだと指摘した。彼は笑って少し考え込み、言った。「もしかしたら、ここの出生率が低いのは、人々が賢いからかもしれない。分散投資ポートフォリオにおけるリスクフリー資産は、子供を持たないことだから」。残念ながら、私はこの発言をどう解釈すればいいのか分からなかった。「出生率が低いことは、良いとも悪いとも言えない。それは誰にも分からない」と彼は付け加えた。
これは知的で責任ある者としての発言である。が、感情的には、やや曖昧なところがある。フィンランドの人口統計学者ロトキルヒ( Rotkirch )は、ある若い女性が妊娠のために自分の体とパートナーシップを犠牲にしなければならないのはなぜかと尋ねた新聞記事を強烈に覚えているという。こうした不安は、未知の世界へ踏み出す際の自然な兆候である。それでもロトキルヒは、「私の考えでは、それは当たり前に起こることであり、不安になるのは普通のことである」と驚いていた。40 年間影響力のある女性学研究者として活躍してきたチャン・ピルファ( Chang Pilwha )も、この戸惑いに同調した。「私の親しいフェミニストの友人の多くは、人生で最高のことは子供を産んだことだと言っている。それを保守的とかリベラルとか決めつけるべきではない」と彼女は語った。彼女は、親になる人がますます少なくなれば、社会がどうなるのかを懸念している。「母親や父親になることは、人間になることを学ぶ貴重なプロセスであり、脆弱さを経験できないことは、より冷酷さを生み出すだけである」。
子育ては、脆弱さの必要条件ではない。十分条件ですらない。しかし、それでもなお、親になるという共通の経験には、他では得られない貴重な何かがあるのかもしれない。子育て中には、自分の脆い心がまるで体外で鼓動しているかのように感じられることもある。地下鉄で眠っている子供の保護者を見ると、彼らはただの見知らぬ人と思えなくなる。苦労を共にしているように感じるし、彼らのためなら間違いなく命を捧げられると思ったりする。
子供たちは、自分たちの理解を超えたところで繰り広げられる議論において、長らく象徴的な役割を担ってきた。子供を人生そのものの究極の肯定と捉える人がいる一方で、子供を持つことを絶望の根源と捉える人もいる。詩人のフィリップ・ラーキン( Philip Larkin )は詠んだ。「人は人に苦しみを引き継ぐ。/それは海岸棚のように深くなる。/できるだけ早く逃げ出せ、/そして自分で子どもを持つな」。しかし、子供をもつことは大した問題ではなかったのだ。結局のところ、ほとんどの人は子供を産んでいたのだから。
私たちは今、古く解決不可能な哲学的対立を、真剣な利害を伴う実証実験へと変貌させようとしているかのようである。そして時として、私たちはそれを急いでいるようにさえ見える。出生率をめぐる論争では、子供たちが社会の象徴的な存在として扱われている。誰もが出生率の数字をことさらに重視している。誰もが他の側面からの分析をしていない。大家族を持つ保守派は、自分たちが動物園の動物のように見られることを恐れている。子供を持たないリベラル派は、自分たちが利己的な出世主義者か放蕩者のように見られることを恐れている。これは単に出生率の低下の結果ではなく、これが出生率低下を加速させているのかもしれない。子供たちを私たち自身のアイデンティティの道具として扱うことは、とても危険なことのように感じられる。
子供たちは私たちの人生における変数である。しかし、同時に彼らは不思議な存在でもある。宗教的な人々は子供たちを神の火花を宿す者と呼び、技術者は未来からの使者と呼ぶ。世俗的なヒューマニストは子供の想像力について何かをぼそぼそと述べるにとどまる。いずれにせよ、子供たちがコンセントに指を突っ込んだり、家に火をつけたりしないようにするのは当然である。しかし、それ以外のことに関しては、子供たちが自分の言いたいこと、あるいはその意味するところを自分で理解できると信じてあげるべきである。私たちは謙虚さの模範として、子供たちの前に立つべきであろう。親個人として、あるいは社会として、子供たちに私たちの確信の重荷を背負わせるのはフェアではない。結局のところ、彼らはただの子供なのだから。♦
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