AI で小説を書くことは間違いなのか?シンセと作曲の関係から創作における AI の役割と限界を考察!

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 しかし、文章を書く時に AI を活用することは、上の話とは別の話である。そう考える者が圧倒的に多いだろう。私もその考えに共感する。私は文章を書くことを生業としている。つまり、文章を書くという行為そのものだけでなく、AI を使わずに自分で文章を書くことにも情熱を注いでいる。良い文章とは何かという問いに常に真摯に向き合っている。自分の仕事は何かと聞かれたら、私はジャーナリストと答える。「作家( writer )」という言葉はおこがましいと感じる。自分にはその資格がないと感じているからである。今のスキルを身につけるために人生をかけて努力してきたし、経験の浅い作家を悩ませる技術的な問題に無難に対処する能力は獲得済みかもしれない。しかし、より高尚で、よりインスピレーションに満ちた文章は、まだ手の届かないところにあるように感じる。足りないのは、想像力、芸術性、インスピレーションに満ちた側面である。

 私は文学という芸術を敬っている。20 代の頃に大学院で英文学を学んだ。そこの教授陣は、優れた精読能力を持つ方々だった。詩評家のヘレン・ヴェンドラー( Helen Vendler )のように、ニュー・クリティシズム( New Criticism:「新批評」ともいう)の隆盛期に頭角を現した教授もいた(新批評とは、1940 年代頃に主流となった学派)。最良の読書法は、すべての単語と句読点を吟味し、それが何を成し遂げているのかを問うことだと説いていた。作者の伝記や歴史的背景を無視し、作品のテクストそのものだけを細密に分析し、有機的な構造を重視していた。私に最も影響を与えたフィリップ・フィッシャー( Philip Fisher )教授は、「高慢と偏見( Pride and Prejudice )」や「カラマーゾフの兄弟( The Brothers Karamazov )」といった「古典( classic )」小説を扱っていた。それらの構造的特徴を精読する方法を知っていた。彼は、個々の場面が対位法上どのように関連しているかを説明することができた。また、筋書きや言語のスタイルやレベルがどのように絡み合いつつ分岐したりして意味を形成しているかを説明することもできた。

 小説を精緻に分析することだけが重要なわけではない。私が教鞭をとっている大学の図書館には貴重な書籍や資料の数々が所蔵されている。「ユリシーズ( Ulysses )」を授業で扱った時、私は学生たちにその作者のジェイムズ・ジョイス( James Joyce )が書き込みをしたゲラを見せた。ジョイスは余白にたくさん書き込みをしていた。印象的だったのは、モリー・ブルームの独白の最後に「 yes 」をもう 1 つ追加していたことである。別の授業では、シャーロット・ブロンテ( Charlotte Brontë )と彼女の弟ブランウェル( Branwell )が子供の頃に作った手作りのミニチュア本のコレクションを見た。2 人はそこに詩や物語をたくさん書き連ねていた。これらの貴重な資料は、書くことが生涯にわたる営みであり、生き方そのものであることを示している。それは、知性の最も崇高な使い方の 1 つである。

(訳者注:モリー・ブルームはユリシーズにおける中心的な女性キャラクターであり、主人公レオポルド・ブルームの妻。最終章で語られる彼女の独白は、不倫、性、過去の情愛、愛する夫への複雑な感情を吐露するもので、文学史上最も印象的なキャラクターの 1 人である。最終章では、彼女の思考が句読点なしで次々と紡がれ、最後は愛と生への肯定を示す「 Yes 」という言葉で締めくくられている。)

 あの図書館の雰囲気の中で、私はときどき書くことの意味を考えた。書くという行為は、困難で、神秘的で、重要であり、ポストモダン的な意味で「不安定」なものである。同時に、直接的で曖昧さのないものでもある。他の芸術分野では、創作者の役割はより複雑であり、作品の地位はより流動的である。音楽にはブライアン・イーノ( Brian Eno )がいた。絵画にはアンディ・ウォーホル( Andy Warhol )がいた。彫刻にはアンディ・ゴールドスワーシー( Andy Goldsworthy )がいた。映画にはヴェルナー・ヘルツォーク( Werner Herzog )がいた。パフォーマンスアーティストのマリーナ・アブラモヴィッチ( Marina Abramović )のアートは、観客の参加に依存している。ジェフ・クーンズ( Jeff Koons )は組み立てラインを運営する CEO 兼アーティストのようであった。さまざまな方法で、多くのアーティストがテクノロジーを駆使して自己を拡張し、芸術との関係を変えてきた。しかし、書かれた言葉は、こうしたことからほぼ免除されていると私は考える。著者の役割を微調整できる実験的な文学があり、大衆小説( popular fiction )では著者の概念は柔軟である。しかし、「真の」文章、つまり文学的な文章は、依然としてシンプルなままである。

 AI が文章表現の壁を打ち破りつつある今、かつてのような単純さはもはや当然のこととは考えられなくなっている。しかし同時に、かつてはほとんど説明する必要もなかった伝統的な手法の美徳が、より際立って見えるようになった。シンセサイザーによる合成や AI の生成に頼った芸術作品の制作では、完璧と不完全さは新たな意味を持ちつつある。テクノロジーによって修正されるので人間の欠点は、それなりに完璧になる。一方、テクノロジーによって生み出された滑らかな表面は、空虚で特徴のないものに感じられる危険性がある。「テクノロジーとの関係は、愛憎入り混じった非常に複雑な関係である」と、ダフト・パンク( Daft Punk )のトーマ・バンガルター( Thomas Bangalter )は 2009 年にアート雑誌「ホワイトウォール( Whitewall )」に語っている。「テクノロジーにはもはや限界がない」。しかし彼は続けて、「どんな人間の行動も、何らかのフラストレーションと向き合わなければならない」と語る。創造プロセスを拡大するテクノロジーは、同時にそれをショートさせる危険性も孕んでいるのかもしれない。バンガルターは、「アーティストになるためには、自制心を身につけること、つまり自ら限界を設けることを学ばなければならない」と結論づけた。♦

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