なぜ私たちは顔に支配されるようになったのか?鏡から AI 監視までの衝撃史!

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 人間は社会的な生き物で、お互いに関与し協力しながら世界を構築している。いろんなことを共有する際に、顔は重要な役割を果たしている。顔に関する最高の理論家であるエマニュエル・レヴィナス( Emmanuel Levinas )は、私たちの肉感的な楕円形の顔を、目鼻立ちのような生物学的・物理的なものではなく、理解や所有を拒みながら自身に無限の責任を迫る、他者の圧倒的な現れであると説いた。また、存在の意味を問う存在論に先立つ倫理こそが哲学の基本であり、他者の顔に応答することこそが、すべての哲学や認識に優先する根源的な関係(第一の哲学)であると考えた。これは、日常的な行動にも当てはまる。この現象は生まれつき備わっているのかもしれない。赤ちゃんは他の複雑な物体よりも顔を好む。そして、生涯を通じて、顔には腕や脚がどんなに魅力的であっても、それらにはない何かが宿っているように見える。あなたが私に話しかけるとき、あなたが手を振っていようといまいと、私はあなたの目を見る。視線が合う状態が長く続くと、どちらかが目をそらさなければならない。もしあなたの顔が見えない場合、例えば、あなたが顔をそむけたり、電話で話しかけてきたりした場合、私は何とか会話を続けることはできるが、繋がりが欠けているように感じるだろう。社会生活において顔が重要な役割を果たすことは、昔から知られていたのだろう。様々な比喩が存在しているし、英語では( face )という語がいろんな熟語に含まれている。物事に直面する( we face up to things ) 、物事に正面から向き合う( we face them down )、面目を保つ( save face )などの表現がある。

 しかし、顔( face )という語には他にも様々な意味がある。英語の face という語には、発明、さらには技巧という意味もある。英語の「 face 」はラテン語の「 facies 」に由来し、創造された形を意味する。フランス語の顔は「 visage 」で、 ラテン語の「 videre 」に由来する。外側から見えるものを暗示している。「 mask 」はラテン語の「 masque 」に由来し、スペイン語の「 mascara (仮面、装う)」はラテン語の「 maquillage 」に由来する。これらのヨーロッパ系の単語は語源的に結びついているようで、いずれも隠蔽、歪形、偽装などの意味を包含している。ソクラテス( Socrates )にとって、価値ある芸術とは自然の美しさを育み、維持することであった。私たちはそれを、彼が好ましくないとみなした「 kommōtikē (化粧) 」、つまり外見を変える技術で喜んで上書きしてしまった。さて、「 person 」という語も、「 impersonation (物真似)」や「 personae (登場人物)」と同様に、 「 persona 」に由来する。これは、古典時代の俳優が演じた舞台用の仮面を意味する。文化史家のハンス・ベルティング( Hans Belting )は、顔と仮面は概念的に切り離せないものだと指摘した。つまり、一方を本物、もう一方を偽物と考えるべきではない、一方を私たちが持っているもの、もう一方を一時的に身につけるものと考えるべきではない、というのである。彼が書いているのだが、人生はまさに永久機関のように絶えず変容・崩壊と再生を繰り返す。つまり感情表現が豊かな劇を演じている様なものであり、私たちの顔は 1 つの明確な位置、1 つの明確な役割に収束し、そして、次にはまた別の顔に再構成されていく。私たちの顔はあらゆる意味で、様々な表情を作り出しているのである。

 つまり、顔はその柔軟性こそが重要なのである。私たちは完成した文章や絵に出会うことはあっても、完成した顔に出会うことは決してない。顔は、個人の気まぐれや社会的な圧力によって常に別のものへと変化し、病気や死によって最後の 1 つの仮面へと固定されるまで変化を続ける。これは、私たちが解釈の流動性の中で共に生きていることを意味する。私たちは常に他人の顔を読み取り、同時に自分の顔も他人から解釈されることを理解している。T・S・エリオット( T. S. Eliot )が述べたように、私たちは自分以外の顔に出会う際には自分の顔を入念に準備するが、相手もまた準備をしていることを知らなければならない。
私たちの解釈はほぼ瞬時に時代遅れになることを知るべきである。

 レヴィナスの哲学は、自らの理解の枠内に世界を収めようとする全体性を批判し、決して自分の思い通りにならない他者との関わりの中にこそ、倫理の根源を見出すべきだと主張する。彼は、顔は「生きた存在」であり、「他者は私に向き合い、私に問いを投げかけ、私に義務を課す」と書いた。さて、どんな義務を課すと言うのか?それは必ずしも明確ではないかもしれない。顔に出会うということは、世界と再び出会うことを意味する。それによって、他者が根本的に自分とは切り離された存在であり、究極的には理解不可能かもしれないが、それでもなお、自分は彼らと関わらなければならないという事実を認識することになる。

 同時に、私はルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン( Ludwig Wittgenstein )も好きである。彼は世間のイメージよりもいたずら好きな人物であった。講義や執筆中に小さな顔を描くのが好きだった。それぞれの顔を数本の線で描き、たいていは笑顔に仕上げていた。こうした落書きは、1930 年代初頭から 1951 年に亡くなる直前まで、彼の原稿に繰り返し登場する。彼はそれらを使って、様々な微妙な点を説明していた。その 1 つが、私たちの言語がいかに人を惑わす可能性があるかということであった。以下は、彼が学生のために描いた絵である。

その後、彼は次のように語った。

この顔を見るとどんな印象を持つか?いろんな答えがあるだろう。「これは単なる線描ではない。独特の表情をした顔である」と言いたくなるかもしれない。……「自己満足に浸った、愚かにも傲慢なビジネスマンに見える。そいつは自分が太っているのに、女たらしだと勘違いしている」などと言う人もいるだろう。しかし、これは表情のおおよその描​​写にすぎない。「言葉では正確に表現できない」と言う人もいるだろう。それでも、顔の表情と呼ばれるものは、顔の描写から切り離せるものだと感じる。…この錯覚は、「この顔は独特の表情をしている( The face has a particular expression )」という表現で「 has (持つ) 」という動詞を使うことで助長されている。同じ意味でも、代わりに「これは独特な顔である( This is a peculiar face )」という表現にすると、ガラッと印象が変わる。顔と表情は密接に結びついているわけだが、後者の表現では切り離せないような感じが強まる。

 ウィトゲンシュタインが示唆していることの 1 つは、私たちが目にする顔を理論化できているわけではないということである。あなたの顔を「読む( read )」と言うことはあるかもしれないが、それは暗号や地図を読むのとは異なる。あなたを見て、潤んだ目と垂れ下がった口の 2 つを認識して、あなたが悲しんでいるという判断を下すわけではない。私はただあなたの顔を見て、その全体像を 1 つのまとまりとして捉え、そこから考えを巡らせるのである。近年の神経科学研究によると、私たちは顔全体を部分よりも容易に処理できることが示されている。私たちは顔に現れる様々な断片を足し合わせて分析しているわけではない。見て、話して、また見る。それが人生なのである。